『武器よさらば』のヘミングウェイを敵にして戦う
---第一次世界大戦とスロヴェニア人
1914年7月から第一次世界大戦が始まると、スロヴェニア人にもオーストリア帝国臣民として徴兵がなされ、主にイタリアとのイゾンツォの戦いに推定15万人以上、現ポーランド、ウクライナなどでのロシアとの東部戦線の戦いに推定3万~5万人が動員された。とりわけ、イゾンツォの戦いでは、自分たちの郷土防衛の意識が強く、また戦功をたて戦後に自分たちの民族的権利を高めたいという動機もあり、激しく戦った。このサイトではイゾンツォの戦いを中心に概観してみたい。
なお、なぜ第一次大戦が起こり、オーストリアがイタリアやロシアと戦うことになったかについては、私の下のサイト→バルカン半島のスラブ系民族とオーストリア、オスマン帝国。第一次大戦への道。を参照して下さい。
イゾンツォというのは、イゾンツォ川、スロヴェニア語ではSoča ソチャ川のことで、現在のスロベニア西部からイタリア北東部にかけて流れる川であり、流域のほぼ全域が当時はオーストリア領であった。イタリアは、この流域を、イタリア領になっていないがイタリア語話者が多く住む、本来はイタリア領にならねばならない「未回収のイタリア」、の一部だとして、この奪取をオーストリアとの戦争をする目的としていた。さらにイタリアは、その先のオーストリア領のトリエステ、イストラ半島も、そして南チロル地方も「未回収のイタリア」として奪取を狙っていた。イタリアは当初は戦争に対し「中立」の立場を示していたが、イギリス側と「未回収のイタリア」獲得の密約が成ると、1915年5月から6月にかけて、イゾンツォ川流域や南チロル地方のオーストリア軍が手薄だったところに電撃的な攻撃をかけ、下の地図の黄緑色の地域を占領した。

赤の実線は、1915年の最初のイタリアの攻撃による前線と一部は両国の国境
赤の点線は、1917年9月の第11次の戦いまでに広げた前線
↑↖→はイタリア軍の電撃攻撃
1884年にアメリカ人マキシムが機関銃を発明し、1904年の日露戦争で本格的に使われるようになって、それまでの戦争の中心だった歩兵の突撃戦術が使えなくなっていた。第一次大戦は、この機関銃への対処として、両軍勢力とも長い塹壕を掘ったり、屋根付きのバンカーを作って、土嚢や鉄条網で防御をし、その中に昼は待機し、主に夜に作戦を実行した。さらに、ライフルの精度も向上し、数百メートル先の敵も正確に狙えるようになったこと、大砲の精度も上がったことなども、広い場所での突撃戦術を使えないようにしていた。イゾンツァ川沿いの山々に、イタリア軍とオーストリア・スロヴェニア軍はそれぞれ塹壕、バンカーを作って戦った。
イゾンツォ(ソチャ)戦線に送られるスロヴェニア兵たち(スロヴェニア近現代博物館の展示より)

この戦場のジオラマは、コバリド博物館のものだが、赤い線でイタリア軍の塹壕を、青い線でオーストリア軍の塹壕を示している。

左はMG08(Maschinengewehr 08)約400〜500発/分。コバリド博物館。右はSchwarzlose M07/12。約400発/分。スロベニア近現代史博物館。共にオーストリア軍のよく使っていた機関銃。
二つとも説明板が無かったのでAIに問い合わせました。もし違っていたら、詳しい方、ご連絡下さい。

コバリド博物館前の機関砲
1916年6月23日から、イタリア軍はさらなる占領をもくろんでがオーストリア軍に攻撃を行った(第1次イゾンツォの戦い)が、オーストリア軍はイゾンツオ川沿いの山地に塹壕とその前に鉄条網を張り巡らし、防御に成功し、7月7日に戦いは終わった。これ以降も、イタリア軍はイゾンツォ川を渡って、山上付近のオーストリア軍の塹壕に何回も攻撃を仕掛けた(1916年7月の第2次~1917年9月第11次のイゾンツォの戦い)が、地の利を生かしたオーストリア軍の防御をなかなか突破することは出来ず、一定の成果をあげたものの、イタリア軍も塹壕、バンカーにこもることが多かった。しかし、オーストリアは、戦争全体としてはロシアとの二正面作戦となっていたため、この地域への兵力集中に限界もあり、次第に消耗していった。リュブリャナの近現代史博物館の説明によると、戦場には放置された死体と砲煙の嫌なにおいが充満し、両軍の兵士たちはいつ攻撃されるか分らないという精神的圧迫と、塹壕内の蚤や虱と格闘し、雨水や溜まり水などの不潔な水を飲まざるをえなくなり、コレラやチフスが蔓延し始める、といった劣悪な環境となっていった。塹壕内の敵を攻撃するため、火焔手榴弾なども使わて、両軍に損害が広がった、という。

コバリド博物館の展示より

左2枚はリュブリャナの近現代博物館の展示、右はコバリド博物館の展示より
現在もイゾンツォ(ソチャ)川沿いのコバリド(旧カポレット)の山の中にイタリア軍のバンカーを修復した遺跡がある。
これは、戦争の記憶を自然とともに歩いて学ぶ場として整備されているコバリドの「歴史の道」の中の一つで、上の写真のバンカーは地図中の7番にあたる。
11度にわたるイタリアの攻撃により、防御のオーストリア軍は死傷者・捕虜合わせて実に150万名に及び、崩壊の危機に直面していった。1917年10月24日、オーストリア軍は、このころ安定していた西部戦線からイゾンツォ戦線にやって来たドイツ軍約10万人を加えて、イタリア軍が手薄だったカポレットを中心に総攻撃を仕掛けた。ドイツ軍は、西部戦線で使っていた「浸透戦術」(敵主力でないところから塹壕を突破し、敵塹壕の後方から攻撃する戦法)を使い、毒ガスも用いてイタリア軍を圧倒し、イタリアのピアーヴェ川まで押し戻し、イタリア兵死傷者約3万人、捕虜27万5000人を出した。

これは後にイタリア軍が使用したものだが、毒ガス弾(コバリド博物館の展示)
しかし、この後イタリア軍は司令官を交代し、英仏軍の支援も受け、ピアーヴェ川右岸に部隊を分散配置し、自動車による大量の補給網も確保して挽回を図った。1918年6月、一気に決着を付けようと橋を渡って攻撃してきたオーストリア軍に対し、橋を破壊して失敗させ、さらに直接川に入って渡ろうとしたオーストリア軍に反撃し、川の増水もあってオーストリア軍は2万人の死者を出した。反転攻勢の準備を整えて、1918年10月23日、イタリア軍はピアーヴェ川を渡河し、オーストリア軍の指揮、補給の要衝ヴィットリオ・ヴェネトに攻撃を集中して30日に奪取し、オーストリア戦線を南北に分断し、後退路を塞ぎ、補給も途絶えさせた。この後イタリア軍はさらなる大反攻に出て、オーストリア軍に3万人の戦死者を出し、42万人を捕虜として、この戦線で最終的に勝利した。ほぼ同時に、全オーストリア軍から脱走兵が続出し、オーストリア内のチェコでチェコ人の政府が樹立され、ハンガリーで暴動が起きるなどオーストリアは崩壊し敗戦となった。以上の戦争のリアルな状況が、アーネスト・ヘミングウェイの小説『武器よさらば』で描かれている。ヘミングウェイ自身は、アメリカ人として、1918年、19歳だったときアメリカ赤十字の救急隊に志願し、このイタリア戦線に負傷兵の救助をする車の運転手として派遣されていた。ピアーヴェ川周辺で活動していたが、同年7月、砲撃により重傷を負って、ミラノの病院に入院し、そこで7歳年上の看護師、アグネス・フォン・クロウスキーと恋仲となるが、後に破局する。この戦争と失恋の経験が『武器よさらば』のストーリーに生かされ、戦場の生々しい描写となった。ネタバレになるが、この小説の主人公の青年男性も同じ仕事をしていて、1917年ころのどれかの戦いで、塹壕内で敵の砲撃を受けて負傷し、入院した病院で、以前面識のあった看護師と再会して恋に落ちる。前線に復帰するが、カポレットの戦いで敗走を余儀なくされ、イタリア軍上官らによる原隊離脱幹部の射殺に直面したため、川に飛び込み軍を脱走し、おちあった看護師の彼女とボートでスイスへ逃げるが・・・。というストーリーである。この主人公が塹壕内で迫撃砲弾で負傷する際の「・・・溶鉱炉の戸が突然パッとあけ放たれたような閃光がひらめいた。と同時に発した轟音は、最初、頭の中で白く鳴り響き、ついで赤く共鳴し、突風の中でいつまでも鳴り止まなかった。なんとか呼吸しようとしたのだが、息をつけない。自分が体の外に吹き飛ばされたような感じがした。・・」(新潮文庫 高見 浩訳p92)という描写はすごくリアルで、ヘミングウェイ自身の被爆負傷体験が元になっていると感じた。コバリドの博物館には、彼についての展示もなされている。スロヴェニアから見ると、彼は「敵」の一員だったことになる。

なお、コバリドには、イタリアの第一次世界大戦の戦没兵士の納骨堂やその近くの戦争博物館もあるが、私はリュブリャナからの日帰りで、またイタリア軍トーチカまでたどり着くのにかなりの時間をとってしまったので、行けなかった。GoogleMapsやインターネットに多くのサイトがあるので参照してください。
戦争100周年を機に作成された電子戦没者データベースなど、スロベニア各地の博物館や歴史研究機関の記録をもとに集められたものによる推計では、スロベニア地域から約15万人~20万人の兵士が徴兵され、戦死、死亡兵士訳25,000人、負傷者90,000人以上だとのこと。
戦後、オーストリアの処置が決められたサン・ジェルマン・アン・レー条約、ハンガリーの処置が決められたトリアノン条約で、両国の領土は大幅に割譲され、「民族自決」の原則により、新たなポーランド、チェコスロバキア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(次のページ参照)などが誕生した。また、戦勝国イタリアは、南チロル、イゾンツォ川流域、トリエステ、イストラ半島など「未回収のイタリア」を回収した。次の地図内の黄色の部分は旧オーストリア領、アイボリーが旧ハンガリー領、赤い国境が、新たなオーストリア、ハンガリーの国境、緑の国境で示したのは、新しい独立国など他の国のものである。

後述するように、スロヴェニアは1918年、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の一員となったが、スロヴェニア自身の新たな領域を次の地図で示す。旧オーストリア帝国からは、三つの公国からそれぞれの領土の一部を、そして旧ハンガリー帝国からも一部を、スロヴェニア人居住地域として割譲された。西の境界は1920年11月ラパロ条約でイタリアとの間で確定した。大戦後のスロヴェニアの領域
ただ、この確定には、スロヴェニアの軍事行動があった。オーストリア帝国の崩壊で新たな国境が未確定な中で、シュタイヤーマルクのマリボルと近辺はオーストリアが領有を宣言したが、スロヴェニア人のRudolf Maisterルドルフ・マイスターを司令官とする部隊はこの地を制圧した。また、Franjo Malgajフランヨ・マルガイの部隊は、ケルンテルンのメジャ川渓谷でオーストリア軍と戦い占拠したが、彼は戦死した。リュブリャナの近現代史博物館にはその展示がある。展示写真の中のピンク↓がマイスター将軍。黄色→がマルガイ
プレクムリュ地方のムルスカソボタの博物館には、スロヴェニアに編入された事が展示されている。また、その編入を記念する水飲み場も見つけた。このプレクムリュ地方が編入されるまでには、1874年に現地のČrenšovci チュレンショフツィで生まれたカトリック司祭で、スロヴェニア語新聞『Novine』(意味は、ずばり『新聞』)を発行したりして、スロヴェニアへの統合を目指してきた、Jožef Klekl ヨジェフ・クレクルらの運動があった。イタリアとの西部国境は1920年のラパッロ条約で決まった。なお、旧ケルンテルン公国からの割譲地域に関しては、一つのトピックスがあるので、次の次のページで紹介しよう。

ムルスカソボタ博物館のスロヴェニア編入の展示の一部と、街中で見つけた編入のため尽力した人々への感謝のプレートの付いた水飲み場。


ムルスカソボタにはプレクムリュ地方のスロヴェニア併合に尽くした人々の記念碑もある。

チュレンショフティの市庁舎。その前にヨジェフ・クレクル像が置かれている。