イタリアに対抗するため止む無くセルビア国と手を組む

---セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人国へ


スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人国の成立
  1917年5月にウィーンのオーストリア帝国議会では、スロヴェニア人議員を中心に、オーストリア帝国内の議員たち33名が、ユーゴスラヴィア・クラブというグループを結成した。その中心は、アントン・コロシェツだった。この時点では、自分たちの独立は想定しておらず、オーストリアとハンガリーの二重帝国であるハプスブルク帝国に、自分たちの自治を認める「三重制」導入を求めていた。
 1918年6月、オーストリアがピアーヴェ川の戦いに敗北し、イタリアの反撃が始まるなど、苦戦する戦況の中で、ユーゴ(南)スラブ「独立」へと向かう動きが強まり、1918年10月5日 - 6日ザグレブでスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議が設立された。議長はコロシェツだった。このセルビア人というのは主にボスニア居住のセルビア人で、クロアチア人、スロヴェニア人などと同様、オーストリアの支配下にあった。 
コロシェツ

 10月下旬、オーストリア軍がヴィットリオ・ヴェネトの戦いに敗北し、軍が崩壊しイタリア軍がオーストリア領内に迫ってくる中、28日チェコがオーストリアからの独立を宣言し、11月1日、ハンガリーも続いた。このような情勢の中で、ハンガリーの支配下にあったクロアチア人もオーストリア支配下のクロアチア人と統一し、そして10月29日、前述のスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議もスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国として独立を宣言した。1918年11月3日にオーストリアはイタリアと休戦協定を結び、事実上敗戦した。さらに11月11日に皇帝カール1世が統治権を放棄して、帝国は崩壊した。
 ただし、実質的にはスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国、といっても、三民族のそれぞれの地域政府の連合体にすぎなかった。次の写真はスロヴェニア政府の初代の閣僚メンバーである。コロシェッツは民族会議の議長の地位にあったが、神父としての信念からか、対外的任務を優先したためか、これには加わってはいない。また、コロシェッツはセルビアとの統合、中央集権国家支持であり、根本は首相とになったJosip Pogačnik ヨシプ・ポガチニックとは国家プランが違っていて、後対立する。

国立近現代史博物館の展示より


左は11月6日、ツェリェでのスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人国家成立祝賀集会。右は10月29日、リュブリャナのコングレス広場での国家成立の祝賀集会(近現代史博物館)。


セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人国(SHS)の成立(Hはクロアチア語での国名Hrvatsksフルヴァツカ)
 セルビア王国は戦勝国となり、バルカン半島の南スラブ人の統一国家をめざした。スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国は、このセルビア王国と統一についての話し合いを11月6日、スイスのジュネーヴでもった。前者は統一国家は分権的な連邦制をとることを主張し、後者はセルビア王の下での集権的国家とするよう主張した。セルビア側の野党勢力も会議に参加していたので、分権制国家案でまとまったが、後にセルビアはこの内容を反故にした。このころイタリア軍がオーストリア領だったダルマチア地方の沿岸部や小島を攻撃してきたため、これに対抗するため、セルビアの力も必要となり、29日にスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国の代表団がセルビア王国の摂政アレクサンダル公に謁見し(セルビア国王ペータル1世は戦局が悪化した1916年以来ギリシャに逃げていた)、これを受けて、12月1日、アレクサンダルはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人国の成立を宣言した。それは同時に、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の消滅を意味するものであった。


    

左はSHSの領域。スロヴェニアもこのSHSに入るが、特にその領域を赤で示した。

真ん中がセルビア国王から初代SHS国王となったペータル1世(1921年に77歳で没。リュブリャナ市庁舎前に全身像があったが第二次大戦中、イタリア占領軍に破壊されたもの。近現代史博物館展示)。

右はこの国の国章。双頭の鷲の中に、セルビアの赤地に白十字の国章、クロアチアの赤白の市松模様の国章、スロヴェニアの青地に三ツ星(ツェリェ家の紋章)と三日月(カルニオラ公国の国章)の国章。


 この国は三民族平等が建前だったが、実際には国王はセルビア国王家から出て、首相も1928年にスロヴェニアのコロシェッツがなるまで、ずっとセルビア人が務めた、セルビア主導の中央集権国家だった。特に、クロアチアは、閣僚は出したが、一貫して自治、分権化を要求してセルビアと対立した。この緊張関係は、後述するが、議会内での殺人事件まで引き起こす。


アドリア海の小島は省略


 


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