小さな村の抵抗が大国間の国境協定を変えさせた
---スロヴェニアに入りたい第一次大戦後のリベリチェの奮闘
ドラボグラードから北西へ約6.5km、片道15分のバスでLibeličeリベリチェという村に着く。特別な村には見えないが、ここは、オーストリア帝国領から、第一次大戦後、特別な努力をして自らスロヴェニア(正式にはセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国=SHS王国)への編入を果たしたところなのである。「オーストリア=ハンガリー帝国時代、リベリチェは・・・中心地でした。村には数軒の宿屋、商店、肉屋、郵便局、パン屋、学校があり、村の未来に不安はないように見えました。・・・住民のほとんどは農民でしたが、商売でも巧みに収入を得ていました。古い巡礼路や交易路が保存され、資金の迅速な流通を可能にしていました。・・・当時スロヴェニア語の使用は禁止されていました。」
(https://www.libelice.si/wp-content/uploads/2009/06/Libelice-1920-19221.pdf 「Libelice-1920-1921」のAIによる翻訳より )

帰りのバスの時間の関係で40分くらいの滞在だったリベリチェの風景。右下の黄色の看板は、リベリチェを出発点とする、徒歩2時間30分の「森林学習道」の案内板。絵のワシミミズクはこの地域にいる絶滅危惧種。
同様の理由で行けなかった左下の教会とその高台からのリベリチェの眺めを見られなかったのは残念!
先の「第一次大戦とスロヴェニア人」のページでふれたように、旧ケルンテルン公国からはいくつかの地域がサン・ジェルマン・アン・レー条約で、SHS王国への割譲が定められた。それらはスロヴェニア語話者の多い地域だったので、スムーズに帰属が決まった。しかし、このリベリチェのあった地域はドイツ語話者とスロヴェニア語話者が混在していたため、オーストリアとSHS王国との間でその帰属について激しく対立したのであった。
そこで、当時「民族自決」の理念が重視されていたこともあり、条約は、この地域の南部をAゾーン、北部をBゾーンと区分して、Bゾーンはドイツ語話者が圧倒的に多かったのでオーストリア領とし、Aゾーンは最終的に現地の住民投票による多数決で全体の帰属を決すると決めたのであった。
そして、成立したての国際連盟の監視下で、1920年10月10日に実際に住民投票が行われた。リベリチェでは、小学校で投票が行われた。SHS側は、この投票に向けて、下のような、「スロヴェニアのケルンテン」という宣伝冊子を発行したり、オーストリアへの風刺絵も作って宣伝した。下の右1枚目の絵は、「コロシュカ(ケルンテン)の人よ、注意せよ!」として、白票には天使が「ユーゴスラヴィア」と書かれたカードを持つ図が示され、SHS国編入の投票を「我らの投票用紙は白い。ドイツ人のは緑」として図の緑の悪魔がもつカードは「D.Oドイツ系オーストリア」とされ、コロシュカの人々にSHS国編入を訴えたもの。実際の投票用紙はそのような形に色分けされてはいなかったが。2枚目は、スロヴェニアの伝説に登場する、かつては地震などの災厄をもたらしたとされるものの、このときは民族のシンボルにもなっていた「リントヴェルン」という龍を描き、その回りのオーストリア人を「(龍よ)我らケルンテルンの罪深き者たちのために祈ってくれ」と書き、オーストリア残留を勧める人々を、スロヴェニアのかつての罪ある動物に滅罪を祈ってもらうしかないような罪深い人々だと揶揄しているもの。3枚目は「黒い眼鏡は捨てよう!」という主題で、右の緑色の登山服を着て、上唇が長く(説教好き、として揶揄しつつその文化的優位性を示す)、ポケットにお金を入れているオーストリア人(経済援助、を「餌」にする構えだ、として風刺)が、地図のSHS国(ユーゴスラヴィア)を黒く塗り、左のコロシュカの人に黒い眼鏡をかけさせ、ユーゴスラヴィアを見えなくさせようとしていることを批判している図である。

リュブリャナの近現代博物館の展示より
私がいろいろ調べたところでは、具体的な票数については、
http://www.hervardi.com/libelice.php.html
のサイトに記されていた。
「1910年の最後のオーストリア=ハンガリー帝国の人口調査によると、リベリチェ村には1,943人が住んでいました。当時、公用語としてスロベニア語を挙げた人は1783人(91.77%)で、ドイツ語を挙げた人は160人(8.23%)でした。10年後、住民投票では704人が投票権を有していました。王立SHSに投票したのは378人(57.16%)、オーストリアに投票したのは290人(42.84%)でした。」(DeepLによるスロヴェニア語の翻訳)
人々は、オーストリア当局の「公正なオーストリアへ来い。貧しいSHS王国を去れ」というスローガンや、ケルンテルン州政府が、投票直前にスロヴェニア人に政治的、文化的、社会的平等を全面的に約束する特別決議を行ったことや、発電所を所有しこの地域に電力を供給していたドイツ人からの圧力などもあり、スロヴェニアとともに歩む道を選択した人は多数だったが、圧倒的ではなかった。宣伝では、オーストリア側の方が圧倒していた、といくつかのサイトに書かれている。
そして、総集計で、オーストリア帰属希望59.04%、SHS王国帰属希望40.96%となったため、このリベリチェを含むAゾーンは全体でオーストリア帰属となった。各投票区の結果は下のとおり。多くのスロヴェニア人たちも、経済的理由から、SHSよりは豊かだったオーストリア残留を選択したのであった。

「Critice iz historie」サイトの「PLEBISCIT U KORUŠKOJ – Celovec vs. Klagenfurt」(https://historija.info/plebiscit-u-koruskoj-celovec-vs-klagenfurt/)の図を私が改変・作製したもの
早速、オーストリアは、憲兵たちによって、決まった「国境」に標柱を立て、有刺鉄線を張り巡らした。しかし、リベリチェのとった態度はほかの地域とは違っていた。若者らは、その標柱を倒し、有刺鉄線を切ることを繰り返して抵抗し、人々はドイツ語ではなくスロヴェニア語を話したり、オーストリアの指示する命令に従わずなどして抵抗した。これらの抵抗運動は、司祭のヴォゴリンツァ、学校管理者ガチニク、教師メンツィンらが指導者として組織化していった(彼らの写真はどのサイトにも未記載)。このため、オーストリアによって、ヴォゴリンツァは追放され、ガチニクは逃亡せざるを得なくなった。
しかし、村人たちは毎日のように小集会をもち、ビラを作っては近隣やスロヴェニア国内に撒いた。ヴォゴリンツァやガチニクらは、この問題をSHS王国に持ち込み、スロヴェニア当局は動きが遅かったが、さらに国際的なピーアールも行った結果、「この事態に介入したのは、マリボルに本部を置く国際境界委員会だった。」 (http://www.hervardi.com/libelice.php.htmlより)
そして、オーストリアに国境再編の協議を行わせるに至り、ついに、1922年10月1日、近隣の「人口の少ない山岳地帯の Šentlovrenskega vrhaシェントロヴェンスキ・ヴルフと Zakamnaザカムナ」(同サイト翻訳より)との領土交換という形で、リベリチェは、スロヴェニア、SHS王国への編入を勝ち取ったのであった(この両地域名はスロヴェニア語で、これとドイツ語変換地名でGoogleMapsで検索したが、リベリチェの北東にLorenzenbergという地名が見られるがそこかどうかは確定できない。Zakamnaは検索しても見つからない)。国際連盟もこれを見守っており、オーストリアは経済的困窮と国際的孤立の中で、柔軟な姿勢をとらざるを得なかったとのこと。10月1日「リベリツァでは大規模な国民的祭典が開催された。至る所にスロベニアの国旗が掲げられ、家々は花で飾られていた。祝典には大勢の人々が参加し、その中にはマリボルから来た人も多くいた。追放されていたリベリツァの司祭アントン・ヴォグリンツェは、1年半以上ぶりに故郷の民衆の前に戻ることができ、集まった人々に対して喜びに満ちた演説を行った。」(同サイト翻訳より) この編入は、住民の意思が国境を動かした稀有な例と言われる。こうして定まったオーストリアとの国境は、今日まで有効である。ただし、現在は両国ともシェンゲン協定を結んでいるので、出入りは全く自由であった。

(左)リベリチェからオーストリアとの国境にあった建物を見る。 (右)オーストリア側からリベリチェを見る。。
その国境に向かう右手に、リベリチェのこの奮闘を伝える博物館がある。ゆっくり見たかったが、時間の制約から本当にざっくりとしか見られなかったのが残念だった。


博物館と内部の様子