議会内殺人、外国訪問国王暗殺ありの激動の戦間期の王国政治


 初めての南スラブ諸民族の統一独立国家だったが、根底に、セルビア国王の下に中央集権国家を維持しようというセルビア人議員と、連邦化・分権化をめざすクロアチア人議員との対立がずっと続いた。1921年7月28日(セルビア正教の聖ヴィトゥスの日にちなむ)、セルビア主導で、「セルビア人、クロアチア人、スロベニア人の王国」(日本などでは「SHS王国」ともされる)という国家の正式名称と中央集権国家体制を規定したヴィドヴダン憲法が制定されたが、それ以前の1920年11月の選挙で選出された議会の主な議員構成と態度は次のようであった。憲法制定の賛否は、 賛成:223、 反対:35、 棄権・欠席:161(この出典は表の下に記した)。クロアチアの最大野党の共和農民党は、党名からも分かるように、王制そのものに否定的で、欠席戦術で抵抗した。スロヴェニアの政党は、民主党は賛成、カトリック聖職者の多いスロヴェニア人民党は棄権と、スロヴェニアとして統一的対応ができなかった。この後、スロヴェニア人民党(コロシェッツ主導)は「セルビア人諸政党主導の政府との対立ではなく、政府への協力によるスロヴェニア人利益の擁護という、非常にプラグマティックな方向性を取った。・・・多くの連立政権に加わ・・・っている。」 なお、スロヴェニアの地は「リュブリャナ県」と「マリボル県」に地方行政区分された。

政党名 地域・民族基盤 議席数 憲法制定の賛否   備考
民主党(DS) セルビア、スロヴェニア 94 賛成  セルビア人の反人民急進党の立場の議員とスロヴェニアの自由主義者
人民急進党(NPS) セルビア中心主義 89 賛成 中央集権・王政支持
共産党   59 棄権  憲法の採決では棄権。1921年12月、非合法にされる
クロアチア共和農民党(HRSS) クロアチア農民層 50 欠席 地方分権、共和制を主張。憲法制定議会をボイコット
農業同盟 ボスニアのセルビア人農民など  39 賛成・反対に分裂 農民協同組合ネットワーク構築を主張。
スロヴェニア人民党・
クロアチア聖職者党
カトリック聖職者など  27 棄権  地方分権を主張
ユーゴスラビア・ムスリム機構 ムスリム(イスラム教徒)  24 賛成 憲法賛成に回る
社会民主党   10 反対  
その他   27    
合計   419    

議席数は『Statistical Review 1921』(政府統計局刊)に基づくとされるが、本表はJoseph Rothschild 「East Central Europe between the two World Wars.」(1974年) pp.215-216をもとに、政党名、議席数を記した。ただし、日本語で一般に入手可能な資料として『ユーゴスラヴィア史 ケンブリッジ版』(スティーヴン・クリソルド編、高田敏明ほか訳、恒文社、p..282)訳注では賛成・反対の数は前掲書と同じだが、「棄権152」となっている。このクリソルド編の書p180やp282なども参考に、政党の特徴、地域基盤、憲法制定の可否の態度などを付け加えた。
出典と補足:
 ①山崎信一「9 戦間期のスロヴェニア」(『スロヴェニアを知るための60章』p.67 明石書店。
 ②Владимир Ћоровићヴラジミル・チョゴヴィッチ『ユーゴスラビアの歴史』第5章第25節、セルビア語版Wikisourceより https://sr.wikisource.org/wiki/ИсторијаЈугославије(В._Ћоровић)_5.25)「彼らは『オブズナナ(Obznana』)」と呼ばれる特別政府令に反発した。これは特に共産党を標的としたもので、国家秩序に対する彼らの活動を事前に封じるものであった。 ・・・彼らの一人が、憲法に対する宣誓のために議会へ向かっていた皇太子アレクサンダルの車両に爆弾を投げつけたが、幸いにも命中しなかった。また別の共産主義者は、1921721日、・・・元内務大臣ミロラド・ドラシュコヴィッチを銃撃した。彼はオブズナナを発令した時期の大臣であり、・・・殺害された。・・・このような政治的闘争の手法は国民議会によって厳しく非難され、共産主義者のすべての議席は無効とされた。 」


 この憲法制定後もクロアチア共和農民党党首Stjepan Radić スチェパン・ラデッチらは、憲法を認めず、ずっと議会をボイコットし、さらにラデッチは共産主義者インターナショナル(コミンテルン)と関係する農民組織「緑色インターナショナル」にクロアチア共和農民党を加盟させたことで、1925年投獄された。しかし、政治の安定を図った与党の人民急進党は、寛容な対応を促す国王の意向も受け、ラデッチの釈放と連立政権入りを提案し、1925年、ラデッチも、人民急進党を「真の農民政党」と誤認し、民族対立を社会の調和へ転換できると期待して、これを受け、釈放された。彼は憲法を事実上承認し、党名から「共和」を外し、「クロアチア農民党(HSS)」とし、「緑色インターナショナル」からも脱退し、教育大臣として入閣した。しかし、ラデッチの、首相の息子の放蕩ぶりの批判や他の閣僚らを嘲るような呼び方、イタリアとの外交の微妙な暴露など、その強烈な個性は内閣の価値を貶め、1927年連立を解消し、再び野党となった。この後、ラデッチは野党だったクロアチアのセルビア人政党独立民主党との連携をしていく。これ以降、与党の人民急進党との感情的対立が激化していった。ちなみに1927年の議会の政党別構成は次のようになった。 

ラデッ チ(出典不詳(撮影者・公表年ともに未確認)。 著作権状態は未確定だが、1928年以前の撮影と推定されるため、著作権は消滅していると判断 

 
1927年選挙後のSHS王国議会の党派別構成(1928年6月時点)
政党・会派名 主な支持基盤 議席数
人民急進党 (NRS)セルビア中心、中央集権王政支持者112
クロアチア農民党 (HSS)クロアチア農民層。地方分権を主張61
民主党 (DS)セルビア人の自由主義者61
独立民主党民主党から分離し、クロアチアを拠点に活動。HSSと連携22
スロヴェニア人民党 (SLS)スロヴェニアのカトリック層21
ユーゴスラビア・ムスリム機構ムスリム17
セルビア農民党セルビアの農民層9
その他12
合計315
  
 議席数は『Statistical Yearbook 1927』に拠るとされるが、本表は、Joseph Rothschild 「East Central Europe between the two World Wars.」」p.229 に掲載された議席数データをもとに、私が政党名を翻訳・再構成し、また、政党の特徴、地域基盤などの記述を加え、表として記したものである。


出典
  ➂『ユーゴスラヴィア史 ケンブリッジ版』(スティーヴン・クリソルド編、高田敏明ほか訳、恒文社 p182、p.282訳注[2]
    Joseph Rothschild 「East Central Europe between the two World Wars.」pp..222-226
   門真卓也  「『第一のユーゴスラヴィア王国』における『暴力の文脈』」 『ロシア・東欧研究』第41号 2012年 p.95

 
 セルビアの人民急進党が組閣したが、クロアチア農民党・独立民主党連合は最大野党となった。ここで議会の議論となったのが、イタリアのローマから南南東約50kmのNettunoネットゥーノでイタリアと結んだ条約の批准の可否であった。このネットゥーノ条約は、大戦後、ラパッロ条約(1920年)・フィウメ協定(1924年)により、ダルマチア(アドリア海東岸)・フィウメ(現リエカ)など係争地で新たにイタリア領土となったところに住んでいて、イタリア国籍を自ら選んだ者に対し、SHS王国領内(国境から50km以内)での不動産取得・使用を容認するというものであった。領土が接するイタリアに脅かされると考えたクロアチア議員たちは当然反対した。また、「5月から6月にかけて、クロアチア、ダルマチア、スロベニアの各都市でネトゥーノ条約に反対する街頭デモが深刻な反体制的性格を帯びました」という情勢があった。これを批准しようというセルビア議員たちは、新たにイタリア領とされた地域に住むセルビア人、クロアチア人の事も考えての面もあったかもしれないが、国際連盟の常任理事国として自分たちより高い地位のイタリアとの繋がりを深めることでのSHS王国の安定を考えたとともに、ムッソリーニに対して腰が引けていた面もあったと思われる。クロアチア側議員の条約批准反対論に対し、「セルビアは、些細な問題で強大なイタリアを挑発するのは無責任だ、と反論した。イタリアはとっくに協定を批准していたため、ムッソリーニはユーゴスラビアとの緊張緩和への断続的な関心を嫌悪して放棄し、執拗な敵対外交へと転換した。その結果、1926年11月27日にはアルバニアと、1927年4月5日にはハンガリーと『包囲』協定を締結した。」という現実があった。ラデッチらは議会で激しくセルビア人らを批判した。19日ラデッチはセルビア急進党のラチッチとの討論の中で、セルビア急進党の議員たちを※「家畜」とほのめかした(※イタリアに従順な態度を例えたか 私注)が、これは翌日に起こる事件の一つの伏線になったと思われる。なお、一部の本やサイトには、議会の議事録をセルビア語で書くかクロアチア語で書くかで激しく対立したと記されているが、私は参照した『Time』誌の記述により、この条約の批准の賛否が、起きた議会内発砲・殺人事件の原因だと考える。そもそも、「議事録の言語を巡って」の記述は、憲法制定下ですでに7年も経過していて、今更議事録の言語を巡って対立するということは普通に考えてあり得ない。ただし、「6月13日と14日には、議会記録におけるキリル文字とラテン文字の使用を巡り、セルビア人議員とクロアチア人議員の間で罵声が飛び交い、議会の審議が中断された。」という記述もあり否定できないが、もしそうなら何らかの問題についての議事の記録を巡ってのことであろうし、一般的な「議事録の言語をめぐっての対立」だけはまずありえないと考える。
1925年のネトゥーノ条約締結時のSHS王国とイタリアの領土(オレンジがSHS王国、緑と黄色がイタリア)
地図出典:Herigona作成「Litorale_1.png」、2009年12月29日。 出典:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Litorale_1.png) ライセンス:パブリックドメイン
出典と補足:
 June17, 1929『Time』誌は、「YUGOSLAVIA: Swine Judged」という記事の中で、前年の議会での激しい討論について「ベオグラードのユーゴスラビア議会(スクプシュティナ)では、熱のこもったスラブ語が飛び交いました。3年にわたる議論の末、イタリア人入植者によるダルマチアへの『平和的浸透』を認めるネトゥーノ条約が、野党のクロアチア人指導者ステファン・ラディッチ氏によって再び激しく非難されたのです。自由を愛する※ジプシー出身(ラデッチはクロアチア人で、いわゆるロマではない。彼の自由奔放さを比喩していると思われる 私注)のラディッチ党首は、差し迫った『進出』の中に、アドリア海を隔ててダルマチアと隣接するクロアチアに面するベニート・ムッソリーニの危険な植民地化の手を見出していた。クロアチア人ラディッチは激昂した激しい演説で叫んだ。」としている。
 ⑤本条項は、1925年7月20日ネトゥーノ署名の『イタリア王国とセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国との間の協定』の付属書C(Annex C)に収録されており、条約全体の英文が「League of Nations Treaty Series, vol. 83 (1928)」 pp. 141–157 に掲載されている。私は翻訳して全文を読んだ。なお、Wikipedia「ネットゥーノ条約」(2025年11月2日閲覧)には「この条約は、イタリア人がユーゴスラビアのダルマチア沿岸地域に自由に移住できるようにするもの」としているが、それは条約のどこにも書かれておらず不正確である。同条約のクロアチア語版、英語版も同様の記述である。考えるに、クロアチアは、今でもこの条約は絶対に認められないものだったと評価しているため、少し過大に記述したと思われる。それを英語版や日本語版のWikipediaは無批判にそのまま翻訳しただけではないのだろうか。
 ⑥Joseph Rothschild 「East Central Europe between the two World Wars.」p.231
 同書 p.228
 ⑧同書 p.231
 ⑨同書 p.231

     

 そして、1928年6月20日、この日に至るまで議会内で激しい口論、野次が繰り返されていたが、当日、次のような議員の発言となった。登場するラチッチ(加害者)とラデッチ(被害者)とは名前が日本語読みで似ていてややこしいが、全く別人なので注意してください。

 ラチッチ(セルビア人民急進党):「我々の国家は、戦争で得たものを活かすべき時期に、ある一部の国民がそれを妨害し、国家の利益を裏切っている。」
 (大騒ぎ)
 ペルナル(クロアチア農民党):「お前らは※地主たちを略奪した!」(※大戦後、セルビア人がオスマン帝国のムスリム地主らから土地を「改革」として奪ったこと。今度はクロアチアを略奪しようとしている、と言う意味だと思われる 私注)

  ラチッチが演壇を降りる:
 ラチッチ:「議長、彼を処分してください。さもなければ、私が処分します!」
(騒ぎと激しい抗議)
 ラチッチ:「私とペルナルの間に割って入ろうとする者は、死ぬことになる!」
  そして、この後、
その瞬間、プニシャ・ラチッチはポケットから自分の※パラベラム拳銃(※ドイツが開発した、自動で1発ずつ弾が撃てる拳銃 私注)を取り出しました。ラチッチの背後の閣僚席に座っていたヴヤチッチ大臣が、発砲を阻止しようと彼の腕を掴みました。同時にクユンジッチ大臣も同じ目的で駆け寄りました。しかし、非常に屈強な男であるラチッチは、両大臣の手を振りほどきました。

ちょうど午前11時25分、パラベラムからの凄まじい銃声が議場に響き渡りました。弾丸はペルナルの心臓の1センチ上を貫きました。ペルナルが議席に崩れ落ちると、ラチッチは拳銃をスチェパン・ラディチに向けました。

これを目撃したジュロ・バサリチェクが、速記者席を飛び越えてラチッチの行動を阻止しようとしました。しかしラチッチは素早くバサリチェクの方へ向き直り、彼に向けて発砲。弾丸は腹部を貫通し、左肩甲骨から抜け、バサリチェクは即座に気を失って床に倒れました。

その間、イヴァン・グランジャがラディチを自らの体で守ろうと駆け寄りました。ラチッチは再び発砲し、グランジャの腕を撃ちました。グランジャが倒れると、ラチッチは冷静な態度でラディチに照準を合わせ、腹部を撃ちました。

次に※パヴレ・ラディチ(※スチェバン・ラデッチの甥 私注)がラチッチに飛びかかりましたが、ラチッチは動じることなくこう言いました:

『はっ、お前を探していたんだ!』

そして落ち着いた様子でパヴレ・ラディチの心臓の1センチ下を撃ち、彼は即座に気を失って床に倒れました。

スヴェトザル・プリビチェヴィッチはスチェパン・ラディチのすぐ隣に座っていたため、ラチッチが6発目を彼に向けると考えられました。しかしそれは起こらず、ラチッチはこれだけの流血の後も冷静に拳銃を手にしたまま閣僚控室と呼ばれる部屋を通って議場を退出しました。

ラチッチが狙ったのは、すべてクロアチア人の国会議員でした。発砲は数秒間隔で行われ、ラチッチによるこの凶行は、わずか1分足らずの間に完了しました。

暗殺後、プニシャ・ラチッチは閣僚控室を通って逃走し、目撃者の証言によれば『大セルビア万歳!』と叫んでいたとされます。彼は武装したまま、誰にも妨げられることなく議会の建物を出ました。外では車が待っており、国会議員ドラガン・ボヨヴィッチと共に、ある友人の家へと向かいました。

   

上は凶行の現場。中央左で俯せに倒れているのは、座席などの推定からスチェパン・ラデッチの可能性がある。写真は、1928年に撮影されたとされる歴史的記録画像である。撮影者は不明であり、著作権の有無を断定できないが、撮影から70年以上が経過しているため、著作権は消滅している可能性が高い。 教育目的で提示するにあたり、制度的誠実性を保ちつつ、出典不明・著作権不明として保留的に扱う。もし著作権者または関係者からの申し出があれば、速やかに対応・削除する。


 翌日のセルビア日刊紙『Politika』の一面と見られるものの一部を下に示すが、見出しには「Убиство Павла Радића и др. Басаричека (訳:パヴレ・ラディチとバサリチェク博士の殺害)」、副見出しには「— Народни посланик Пуниша Рачић убија из револвера др. Басаричека и Павла Радића. — Тешко су рањени г. г. Ст. Радић, др.Пернар и Гранћа. — Пуниша Рачић се силоћпредао полицији —(訳:— 国民議会議員プニシャ・ラチッチがリボルバーでバサリチェク博士とパヴレ・ラディチを殺害。 — スチェパン・ラディチ、ペルナル博士、グランチャ氏が重傷。 — プニシャ・ラチッチは警察に拘束された)」とあり、パヴレ・ラディチとバサリチェクが殺されたこと、あと3人が重傷を負ったことがここから分かる。さらに、この重傷を負った中の1人、スチェパン・ラディチも入院して後に死亡したラチッチは、その後警察に出頭し、懲役60年の判決を受けるが、後20年に減刑されたが後釈放された。 ベオグラードで自宅軟禁に近い待遇となったが、1944年、第二次大戦中にパルチザンに殺されたというがその点は未確認である。

左の写真は殺されたジュロ・バサリチェク、右の写真または絵が殺人犯となったラチッチ。


 この事件により、当時のVelimir Vukićevićヴェリミール・ヴキチェヴィッチ内閣は総辞職し、セルビア、クロアチアの対立を緩和することを目的に、それまで内務大臣だった、スロヴェニア人のAnton Korošecアントン・コロシェッツが首相となり組閣した。彼は、クロアチアの政党が議会ボイコットをしている間に、セルビア議員たちと妥協し、ネットゥーノ条約の批准を強行し、クロアチア人から反感をかい、民族間対立はかえって強まった。12月1日には、クロアチアのザグレブで政府に抗議した学生たちと警官隊の衝突で10数名が死亡したり、政府与党の民主党が、不作で困窮している農民たちに、国家財政が厳しい中、資金援助をするよう強行に迫ったりしたため、コロシェッツは12月30日に辞職した

出典と補足;
 ➉議員の発言等は、Josipa Horvata, Politička povijest Hrvatske, II, August Cesarec, Zagreb, 1989., pp. 341.-342
 ⑪引用した「その瞬間~向かいました」のところは、ルドルフ・ホルヴァト著『拷問台の上のクロアチア』(1992年、ザグレブ、Školska knjiga)
  pp.389–390からの抜粋
 ⑫出典はユーザー投稿型フォーラム mycity-military.com に掲載されたもので、原紙の著作権の所在は不確定であるが、発行から95年以上が経過している。 教育目的での使用にあたり、出典の不確定性を明示し、必要最小限の範囲で翻訳・注釈を施した。
   URL:https://www.mycity-military.com/slika.php?slika=1611_254948172_P_2484_1928_06_21_001%20-%20Punisa%20Racic.png(2025年10月20日アクセス) 
 ⑬最初に懲役60年の判決がでたことについての一次資料は入手できなかったが、様々なものに書かれているため、広く知られた事実だと考える。  June17, 1929『Time』誌などには、最終的に「懲役20年」となった旨が書かれている。
 ⑭釈放については、二次資料だが、Joseph Rothschild 「East Central Europe between the two World Wars.」p.232の欄外注3に記述がある。
 ⑮Joseph Rothschild同書p.234
 
 これらの状況を見た国王アレクサンドル1世(在位1921年~)は、1929年1月、憲法を停止し、国会、市議会、県議会を廃止するクーデターを起こし、出版の自由を抑圧し、信頼の置ける者のみと政治を行うなど、国王独裁を行った。さらに10月、国名を「ユーゴスラヴィア」と改称し、南(ユーゴ)スラブ民族融合国であることを鮮明にしようとし、地方区分も改め、民族名をその地方名から外した。スロヴェニアの地は「リュブリャナ県」と「マリボル県」に代わって、「ドラーヴァ州」とされた。これは、スロヴェニア北東部を西から東へ流れる大きなドラーヴァ川に因んだ。

     

(左)コロシェッツ  (中)アレクサンドル1世  (右)アレクサンドルの決めた地方区分とその名  いずれも近現代史博物館の展示より


 アレクサンドルは、1931年には新憲法を制定し、自ら作った体制を法制化した。それまでのヴィドヴダン憲法では、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国は、立憲・議会制・世襲君主制である」(第1条)としていた国の体制を、1931年憲法では「ユーゴスラビア王国は、世襲制かつ憲法による君主制である。」(第1条)とし、国名を変えただけではなく、「議会制」の文字を削除して、議会の地位を落とした。その具体的システムとしては、立法権について、ヴィドヴダン憲法では「立法権は、国王と国民議会が共同で行使する。」(第46条)という国民の選挙による国民議会(Народна Скупштина )の一院制だったのに、1931年憲法では「立法権は国王と国民代表機関によって共同で行使される。 国民代表機関は、上院と国民議会によって構成される。」(第26条)と、国民議会と並んで新たに上院(Сенат)を設けて二院制とし、「国王は、選ばれた者と同数の上院議員を任命することができる。」(第50条)とし、国王の意向を汲む議員を立法に携わらせた。さらに、「王権によるすべての文書による行為は、 所管の大臣または大臣会議によって共同署名される。」(第34条)と書かれたが、ヴィドヴダン憲法にあった行政権などについて「王の権力による行為は、管轄大臣が副署していない限り、効力を有せず、また執行されることもない。」(第54条)という、明確に国王の権力を統制しうると考えられる条項は撤廃され、国王の権限の強化をここでも示した。それから、国王が2年前に定めた新地方区分について詳細にそれぞれの地方の範囲を詳細に書き込んだ(第83条)。
 
 ユーゴスラビア統一を掲げ、全国的な政党のみを許可し、地方、宗教、分離主義者を母体とする体育協会までを禁止した、アレクサンドルのとった一連の独裁の対応は、彼に反発する者を増やした。スロヴェニアのコロシェッツまで、スロヴェニアの自治を訴えたため拘禁された。この情勢の中で、テロ組織である、マケドニアのセルビアからの独立を目指した「内部マケドニア革命組織」とクロアチア独立をめざす「ウスタシャ」(クロアチア革命運動)が連携した。そして、1934年10月9日、アレクサンドルが、イタリアやドイツと対抗しようとしていたフランスに接近するため、フランスを公式訪問し、マルセイユでオープンカーに乗っていたとき、内部マケドニア革命組織のブルガリア人テロリストの凶弾により暗殺された。ハンガリーの関与が疑われ、ユーゴはフランスと国際連盟に調査するよう要求したが、フランスはその要求を撤回するよう圧力をかけたため、ユーゴスラヴィアはフランスから離れ、ドイツ、イタリアとの関係改善を模索することになった。 

暗殺される直前のアレクサンドル1世(左)

出典不詳・著作権状態未確認。教育目的での注釈付き引用に限定して掲載


 アレクサンドルの死後、息子のペートル2世が即位したが、11歳だったため、アレクサンドルの生前の遺言書により、アレクサンドルの従兄弟Pavle Karađorđevićパヴレ・カラジョルジェヴィチが摂政として実権を握り、アレクサンドルの憲法体制を引き継いだ。しかし、クロアチア人弾圧は緩和し、1939年、クロアチアに総督と独自の議会を認める、内政面での一定の自治を与えた。このころドイツがユーゴの最大の貿易相手国となっていたこともあり、パヴレの外交政策は様々動揺しつつ、ドイツとの連携の方向に進んだ

パヴレ・カラジョルジェヴィチ
出典:Wikimedia Commons「Prince Paul of Yugoslavia.jpg」 撮影年:1935年 著作権:Public Domain(著作権切れ

出典:
  ⑯Joseph Rothschild 「East Central Europe between the two World Wars.」pp234-235
    『ユーゴスラヴィア史 ケンブリッジ版』(スティーヴン・クリソルド編、高田敏明ほか訳、恒文社、p.188
  ⑰条文は、ドイツ語法制史サイトhttps://Verfassungen.eu">Verfassungen.eに掲載されたものに準拠している。原典官報(Službene novine br. 142A/1921)に基づく構成を持ち、章立てと条文内容が忠実に反映されている。 出典:Verfassungen.eu「Verfassung des Königreichs der Serben, Kroaten und Slowenen (Vidovdan-Verfassung, 1921)」 URL:https://www.verfassungen.net/yu/verf21.htm(2025年10月20日アクセス)。文中のヴィドヴダン憲法の青字で示した条文はすべてこれに基づく。
  ⑱『スルジュベニ・ノヴィニ』第200号(1931年9月3日)、ユーゴスラビア王国政府印刷局。 デジタル版:セルビア国立図書館デジタルアーカイブ  https://digitalna.nb.rs/view/URN:NB:RS:SD_32AD9356FA85FB655C55A96AF1D7ACD7  文中の1931年憲法の赤字で示した条文はすべてこれに基づく。
  ⑲Joseph Rothschild 同書p.246  スティーヴン・クリソルド編 同書pp.192-199
  ⑳スティーヴン・クリソルド編 同書pp.200-210


 


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