小農園、女性労働者、ラジオ、金メダル、そして大学設立!!
---戦間期の経済、文化、教育など


 戦間期のSHS王国の政治は、セルビアとクロアチアの対立が続き混乱した状態であったが、この国の一部となったスロヴェニアの経済や文化は、世界恐慌の影響を受けたものの、全体として発展した。
 1921年の国勢調査によれば、同王国には985,155人のスロヴェニア人が居住しており、1931年の調査ではその数は1,144,298人に増加した
 戦間期のスロヴェニアは、「依然として国民所得の半分を農業が占める、主に農業中心の社会であった。人口の約60%が農業収入に依存していた」。オーストリアやハンガリーの地主たちの所有農地が、農民たちにほぼ無償で配分される改革がなされたため、王国全体でもスロヴェニアでも自作農家が増加した。「農民の約90%が自らの土地を所有していた」。しかし、下のユーゴスラヴィア王国全体の表を見ると、2ヘクタール以下の零細な農園が全体の33%であり、さらに5ヘクタール以下のものは全体の2/3も占める一方、その合計面積は全体の28%を占めるに過ぎなかった。スロヴェニアでは家族経営の自給的農業が、牛馬を使って行われ、とうもろこしや小麦を中心に生産されていた



   

スロヴェニア近現代史博物館の戦間期の展示。左は当時の農村の収穫風景。右は耕作する馬の首輪。


 王国全体の輸出品も下の表が示すように、農産物、家畜が輸出額全体の約40~50%を占めていた。スロヴェニアもこれに貢献するともに、その気候などから考えると、この他に葡萄やリンゴなどの果樹、酪農製品、ワインなどを輸出していたと考えられる。下の2番目の表からも当時のスロヴェニアの作付面積の中での葡萄園、果樹園が他の地域と比べて相対的に多いことが、これを裏付けている。



1930年当時のユーゴスラヴィア王国行政区ごとの作付け面積とその内容、割合


 ただ、このような多数の小規模農園は、1929年以降の世界大恐慌により、「収穫物の販売価格が生産コストを下回る状況に直面し、生活の維持すら困難になった。これにより、農村部での債務不履行や土地の喪失が相次ぎ、社会的な不安が拡大した。」自給中心と言っても、日用品購買のためには余剰分を市場で売らざるを得なかったり、借金をしていた者もいたので、市場の縮小は影響したのだった。
 「当時の統計によれば、農業人口の半数は生産性の観点から『余剰』と見なされていた。」 この余剰人口の一部を使って、鉱工業も発展した。
 オーストリア支配下では「グラーツやトリエステのような工業都市へ原材料や中間財を供給していた。だが、・・・その役割から切り離され、ユーゴ内では最も先進的な地域となり、・・・新興市場に完成品を供給する地位についた。しかも、・・・関税障壁によって保護されることになった。・・・さらに、多くのドイツ人やオーストリア人が企業所有者、行政官および技師として働いていたおかげで、スロヴェニアはユーゴ国内の市場で優位にたてた。生粋のスロヴェニア人企業家も出現した。工場の数は1918年の275から1939年には倍近い532へと増加した。・・・
 ・・・この時代に最大の前進を見せたのは織物工業であった。大部分の資本はチェコ人による投資であった。第二次世界大戦以前に、スロヴェニアの産出高はユーゴの織物生産総額の37%を占めるに至った。織物工業は、木材加工と冶金業についで3 番目に重要な工業部門となった。」1930年の統計を見ると、スロヴェニアでは鉛や亜鉛の冶金が特に目立つ。「第一次世界大戦前にはスロヴェニアに8つの主要な繊維工場があったが、1939年にはその数は109にまで増加した。」マリボルが繊維産業の中心だったが、コチェービエのような地方都市でも繊維工場が建設され、女性労働者が増加した。その結果、「スロヴェニアの産業部門における労働者全体のうち、女性が占める割合が第二次世界大戦前に40%に達した。 コチェービエに設立されたTextilana繊維工場は、ここに土地を持っていたオーストリア貴族のKarl Auersperg(カール・アウエルスペルク)により、1920年に建設され1934年まで次第に拡張された

 

左は1925年ころのコチェービエのTextilana繊維工場の女性労働者たち。 右の繊維製品の展示とともにコチェービエ博物館のもの。




 この時代、全体的に発展していった経済に裏付けられ、まだ国民全体にではなかったが、自動車、電話、ラジオなどの一定の普及が見られた。
 1897年にリュブリャナとマリボルで国営の電話網が始動し、初期の加入者数はリュブリャナ66人だったが、1922年の電話帳をもとに見てみると、99の市や町の電話加入者数が記録されていて、リュブリャナ:568(約94人に1台)マリボル:394(約78人に1台 )となっていた。リュブリャナでは、官庁・病院・学校・企業・新聞社・ホテルなどが電話を所有し、 個人加入者は主に弁護士、銀行家、技師、教授などであった。1927年、リュブリャナに初の自動電話交換機が設置され、最初の1,000回線はすぐに完売したため、翌年にはさらに500回線が追加された
 1928年9月1日にはラジオ局リュブリャナが放送を開始した。この放送局は、578 mのラジオ波で、2.5 KWの出力で放送した。1931年には出力5kwのアンテナも立てられた。1938年には、すでに19,406人の加入者を擁していた。この受信者数の正確な根拠が記されていないので、AIのCopilotに、この電波の強さではどれくらいの範囲のどれくらいの世帯に届いていたか、試しに計算させたら、
「波長578m(約519kHz)・出力5kWの場合、平野部では昼間で約100150km、夜間は200km以上届く可能性があります。この範囲は、リュブリャナ市を中心にスロヴェニア中部〜東部の主要都市(マリボル、ツェリェ、クラーニなど)を含む可能性があります。
仮に半径150km圏内を受信可能とすると、対象人口は約40万人前後、世帯数は1世帯4.5人とすると約88,900世帯
契約者数(1938年):19,406世帯
推定受信圏世帯数(5kW):約88,900世帯
21.8%の世帯が受信していたことになります。」とのこと。あくまで推定だが。

  

スロヴェニア近現代博物館の展示より。左から2番目の地図は当時の電話網。右から2番目は1929年に製造されたフィリップス社製のラジオ受信機。
右は1929年〜30年のRadio Ljubljana(リュブリャナ放送局)による10~150ディナールごとのラジオ製品・購入方式の宣伝パネル。


 このラジオでも、オリンピックが放送されたが、スロヴェニア人では、Leon Štukelj(レオン・シュトゥケリ)がユーゴスラヴィア王国代表として、体操で活躍し、1924年パリ大会体操個人総合と鉄棒で金メダル、1928年アムステルダム大会体操吊り輪で金メダルを獲得するなど実績をあげた。このような活躍の背景には、チェコ主導の「スラヴ・ソコル(鷹)連盟」に1908年に加盟していて、この戦間期に集団体操やマスゲームなどを通じての民族の団結とその表現に多くの国民が参加していたことがあった。

近現代史博物館の展示より。左下が王国のSokolの旗。右のにレオン・シュトゥケリのオリンピックでの競技、表彰の写真がある。


 戦間期、学問、教育の分野での大きな出来事は、1919年にリュブリャナ大学が、スロヴェニアの初めての大学、スロヴェニア語を講義言語とする大学として創設されたことであった。1786年と1787年、現スロヴェニアの「カルニオラ地方の州議会は、リュブリャナに大学を設立する提案をウィーンに提出」するなど、スロヴェニアに大学を設立する動きはかなり前からあったが、オーストリア支配下では認められなかった。大学での教育を求めるスロヴェニア人は、ウィーン、プラハなどの大学に行かざるを得なかった。19世紀以降の民族アイデンティティの強まりの中で、「1902年、ヤンコ・ポレツ博士(Dr. Janko Polec)とイヴァン・フリバル(Ivan Hribar)は、リュブリャナに大学を設立するための支持を集める活動を開始した。」オーストリア支配が終わり、SHS王国になり、1918年11月「リュブリャナでは大学委員会が設立され、プラハ大学の心理学教授ミハイロ・ロストハルの協力を得て活動が開始された。」「1919年7月9日、ベオグラードの臨時国民議会に、神学、法学、哲学、技術、医学の5つの学部からなる大学が正式に提案された。・・・ 大学は1919/1920学年度に開校した。」「大学は、・・・法学・哲学・医学・神学の4学部を設置した。 哲学部は、人文学だけでなく、数学・化学・鉱物学・地質学・物理学などの自然科学も含んでいた。」しかし、その財政については、SHS国家の法体系としてのきちんとした位置づけが無かったため、「国家予算からの直接的な財政支援を受けていなかった。 その代わりに、銀行からの融資や個人・団体からの寄付によって資金を調達していた。」このような困難にもかかわらず、スロヴェニアの中心に、スロヴェニア語で講義する大学ができたことは、スロヴェニアの国や人にとってたいへん大きなことであった。建物はカルニオラ州知事公邸として使用されていた建物を利用した。「1919年8月31日、国王勅令により最初の18名の教授が任命された。・・・最初の学年には、942名の学生が大学に入学した。うち女性は28名、男性は914名であった。
 この大学を支えた背景の一つに、戦間期のスロヴェニアでの初等教育、中等教育の発展があった。「1939年の時点でユーゴスラビア全体の識字率が60%と推測されるのに対してスロベニアでは92%にまで及んでいた」。

 

創立時の大学。右はリュブリャナ大学のスラヴ語セミナーに所属する学生たちが、図書室または研究室で学習している様子。(近現代博物館の展示より)

現在の大学本部


①『1918-1941』スロヴェニア近現代史博物館常設展示資料2010年改装のPDFより
② Erjavec, F. 1928. Kmetiško vprašanje v Sloveniji. Ljubljana: Jugoslovanska kmetska zveza.  p12の AI翻訳より
➂Wikipedia 「Kingdom of Yugoslavia」の翻訳より。原典Calic, Marie-Janine (2019). A History of Yugoslavia. West Lafayette: Purdue University., p. 91.
④とうもろこし、小麦の位置については、Statistički Godišnjak Kraljevine Jugoslavije Knjiga II (1930年 ユーゴスラビア王国 統計年鑑第II巻)の農業関連統計より
⑤Jamer, Nina(2010)『Štiri velike gospodarske krize na Slovenskem(スロヴェニアにおける四つの大きな経済危機)』卒業論文、リュブリャナ大学経済学部、リュブリャナ。p14
⑥『1918-1941』スロヴェニア近現代史博物館常設展示資料2010年改装のPDF p25    原資料:1924年6月13日付の新聞『Slovenec』
⑦小山洋司『スロヴェニア 旧ユーゴの優等生』(群像社)pp.42
 同氏「スロヴェニア社会の変化-19世紀後半から21世紀初めにかけて-」『国際地域研究論集(JISRD)』第8号、新潟大学国際地域学研究センター、p.p41-42
 原資料:Kristensen, Peer Hull and Mark Jaklič (1998), “ATLANTIS VALLEYS: Local Continuity and Industrialization in Slovenia Contrasted with West Jutland, Denmark, and Third Italy.”
⑧Statistički Godišnjak Kraljevine Jugoslavije Knjiga II (1930年 ユーゴスラビア王国 統計年鑑第II巻)の工業関連統計より
⑨コチェービエ博物館の展示説明より
Lazarević, Žarko (2009). Plasti prostora in časa: iz gospodarske zgodovine Slovenije prve polovice 20. stoletja. Ljubljana: Inštitut za novejšo zgodovino, pp. 408–409.
⑪コチェービエ博物館の展示説明より
⑫Razstava Slovenska Zgodovina's postというサイト(https://www.facebook.com/SlovenskaZgodovinaLG/posts/od-leta-1876-ko-je-a-g-bell-vlo%C5%BEil-prvi-patent-za-telefon-do-danes-je- tehnologij/2640257146120047/)より
⑬Wikipedia「Zgodovina Radiotelevizije Slovenija」より。1938年の受診者数については出典未詳。
⑭リュブリャナ大学の100年誌英語版『UNIVERCITY OF LJUBLJANA 100 YEARS 1919-2019 FREEDOM OF THE SPIRIT』p40の翻訳より
⑮同 p64
⑯同 p83
⑰同 p90
⑱同 p97
⑲同 p96
⑳スロヴェニア共和国の公式広報ポータル「Slovenia.si」の一部「Cetenary-of-the-university-of-Ljubljana」より
ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール著 千田善訳『スロヴェニア』白水社、1999年



 


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