みんな集まれ!! スロベニア統一まで声を上げ続けよう!!

                                                                               ---19世紀後半、ターボル運動の高揚

 

(左)リュトメルの位置と、その後のターボル運動が起きた場所を諸資料により私が作成した地図。 (右)マティヤ・プレログ

 1868年8月9日、日曜日の午前10時、皆が教会での礼拝を終えた頃、シュタイエルスカのリュトメルというところの広い原野に、自費で6000から7000人の人々が集まった。民族衣装を着た人も多かった。彼らは、「スロヴェニア民族の統一」「スロヴェニア語の公用語化」などのスローガンを演説して唱え、愛国的な歌を歌って、散会した。この集会の呼びかけの中心となったのは、ウィーンで医学を修めた後、医師を必要としていたリュトメルに来ていた、Matija Plerogマティヤ・プレログらであった。これ以後、日曜日や祭日に、1871年に禁止されるまであと17回、スロヴェニア人居住地で同じような野外集会が行われた。平均6000人がそれぞれ参加し、同様な政治的要求が叫ばれ、スピーチが終わっても、歌や音楽、ダンス、宴会までが続いたり、「スロヴェニア人よ、団結しよう!」と書かれた絵葉書、記念バッジ、燭台なども売り出された。これらの運動は、スロヴェニア語で「キャンプ」を意味するtaborターボル、と呼ばれた。1848年に「諸国民の春」の中で、スロヴェニア人の自決に向けて掲げられた極めて重要な目標が、再び、より多くの人々の切実な要求として世界に見える形で示されたのであった。チェコでも同時期、このような運動が起こり、こちらはより明確に、自治や普通選挙も要求した。チェコではかつて15世紀に、ターボルという町で、神聖ローマ皇帝に反旗を翻す事件が起きたことに因んで、この運動をターボルと呼んでいた。スロヴェニアもこれに倣うとともに、スロヴェニア語でのtaborに「防衛のための野営」という意味もあったので、「民族の自己防衛としての野営」という意味合いをもたせて、この運動をターボルと呼んだのであった。
 スロヴェニアやチェコで1868年に運動が出現、高揚したのには背景があった。1866年に、オーストリアはプロイセンと戦争をして敗北し、プロイセンが中心となって進めるドイツ統一から完全に外されることになった。それで、勢力挽回のため、支配下だったハンガリーに独自の政府と議会を認め、同君連合、すなわちオーストリア=ハンガリー二重帝国とし、ハンガリーの積極的支援を求めたのであった。このハンガリー優遇策に、同様の支配下にあったチェコやスロヴェニアは大きな刺激を受けたのであった。
 ターボル運動は、残念ながら禁止されたため姿を消すが、ここで再度求めたスロヴェニア統一、権利拡大などは、伏流となり、20世紀に一気に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人国」となって爆発する。



 

(左)1868年、最初のターボルの写真(様々なサイトに載せられている)  (右)現在のその場所。静かな公園になっている(私が現地に行って撮影。以後のカラー写真も)


    

リュトメルの会場だった所には、記念碑が立てられ、周年行事ごとにその記念プレートが付け加えられている。また、運動を組織した人々の紹介のパネルも立てられている。


  

1869年西部のビヴカ地方カルツでのターボルを呼びかけたポスター。右は最大の人数約3万人が集まった1869年のリュブリャナ郊外のターボル。女性たちが民族衣装を着ているのが分る。


 このターボル運動は、スロヴェニア人だけでなく、同様にオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったクロアチア人、ボスニアのセルビア人と一緒になっての「南スラブ人の権利拡大」という思想、運動に転化し、その中心となったスロヴェニアの人民党の神父Anton Korošecアントン・コロシェッツは、1907年帝国議会で「南スラブ人の統一と自治」を要求する宣言を述べるに至った。


 


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