「ウィーンの春」にデビュー

---「統一スロヴェニア」「スロヴェニア語公用語化」の要求

 「風が吹くと桶屋が儲かる」というのは、物事の連鎖というものをいささか強引に示す「ことわざ」だが、1848年3月以降、オーストリアに起こったことは、フランスから風が吹いたため、さらにそれはイギリスからの風によるところのものであった。そして、その風は「統一スロヴェニア」への団結、という「儲かる桶屋」以上の確実なものを出現させたのであった。
 すなわち、1847年、イギリスで産業革命を推進して来た綿工業は、資本主義に付き物の過剰生産による不況となり、売れない在庫品が増えていた。また鉄道への投資も過剰になって、採算の取れない鉄道が建設中のまま乱立していた。このように、資本が経済の場から引き揚げられたり凍結しつつあるところに、労働者や貧農といった多数の民衆の食べ物であったじゃがいもの悪い病気がヨーロッパ各地で広まったため、イギリス政府は、アメリカから食料として大量のとうもろこしを輸入せざるをえなくなった。当時は「金本位制」で、金そのものが直接の貨幣だったため、今と違ってイギリスは手形の割引率を引き上げる(すなわちより割り引いて=より安く手形を換金する)など、金融の引き締めで、銀行や自国の金の流出をなるべく防ぐ措置をとったのであった。この当時は、現在の「管理通貨制」のように、銀行が金融緩和政策で不況対策をするなどということはなく、銀行の不況時の、自分を守るための対応が一層の不況の長期化を進めたのだった。フランスよりも、徹底して金融引き締めを行ったイギリスの方が利子率が高くなり、フランスの金がイギリスに流れ出した。当然、フランスでは金が自国経済に出回る量が減り、不況となり、失業者は増え、こちらはライ麦や豆類への生産転換、増産を図ったが、やはり食料供給が不安定となった。このような不況、食料不安を根底に、弱者の苦しい生活を改善できない政府に対して批判が高まっていった。
 フランスでは、従来から普通選挙制を実施しない政府に不満、批判が高まっていたが、それは従来、「改革宴会」という形での政治集会で意見表明がなされ、フランス政府は「ガス抜き」として黙認していた。しかし、経済危機の中で、政府批判が強まったため、1848年2月21日、政府は翌日の「宴会」集会の禁止命令を出した。これが引き金となって、翌22日、パリの街を市民が埋め尽くし、「政府打倒」を叫んで行進した。そして市警に対抗するため、また翌23日には動員された軍隊と対抗するため、あちこちに計1500を越えるバリケードが築かれた。 

パリ市内の2月23日、民衆の行進の様子(左)                                                   パリ市内の2月25日のバリケード(右)

2月24日にパレ・ロワイヤル広場で起きた市街戦による、シャトー・ドー(給水塔)の襲撃と焼失

(出典:Anonymous, “Prise du château d'eau, place du Palais-Royal, le 24 février 1848”, Musée Carnavalet, Paris Muséesコレクションより )


 国王ルイ・フィリップは首相を退任させたが、軍の発砲で犠牲者52人を出し、怒った民衆の前に、ついに24日、自らも退位してイギリスに亡命した。ここに社会主義者も入れた共和制の新政府が誕生した。これがフランスの二月革命である。共和制政府は、3月2日、男子21歳以上の普通選挙制を制定し、続いて3月中に、言論・出版の自由、団結権の承認、失業者8万人救済の「国立作業所」設置など、改革を推進していった。
 そして、このフランスの革命の風が、ここまでのヨーロッパ旧体制を1815年以降構築してきた、保守派の「総帥」メッテルニヒが鎮座してきたウィーンにも吹き荒れた。3月13日、約6000人の大学生が組織した「アカデミック・レギオン」が先頭になって、「言論の自由、検閲の廃止、憲法制定、メッテルニヒ退陣」などを求め、デモを組織して王宮に向かい、これに軍が発砲して死者が出たため、暴動となり、バリケードも築かれ、パリの2月と同じような状態になった。メッテルニヒは亡命し、皇帝フェルディナンドは自由主義的内閣を組織し、憲法制定を約束した。この間、ミラノ、ベネチア、ハンガリーなどで独立政府樹立、チェコの自治獲得など、オーストリアの支配下にあった諸民族が独立や自治を求めて一定獲得し、「諸国民の春」と呼ばれた。

3月13日の学生たちの蜂起の場面。フランツ大学(ウィーン大学)前で「自由・平等・博愛・大学」と書いた旗や武器を持っている。



 これらの動きに刺激され、ケルンテルンで生まれたスロヴェニア語話者だったカトリック司祭、Matija Majar マティヤ・マヤール(1809–1892)は、3月17日に、
  ○オーストリア各地に分散しているスロヴェニア人の住む諸地域を、1つの行政単位とすること
  ○行政、司法、教育などの場でスロヴェニア語をドイツ語と対等なものとして使うこと、すなわち公用語とすること
  ○スロヴェニア人も他民族と同等の権利を持つこと

などをうたった「統一スロヴェニア綱領」をまとめた。
 この内容は、ウィーンのスロヴェニア人の集まりで一層練り上げられた後、現スロヴェニアのKranjクラーニ生まれで、ウィーン大学で医学を学び、リュブリャナで感染症に関する論文などを著しつつ、政治に関わり、スロヴェニア語による新聞『Kmetijske in rokodelske novice』(「農民と職人ニュース)」を発行していた、Janez Bleiweisヤネス・ブレイヴァイス(1808-81)が、「「Slovenski zbor v Beču (na Dunaju)(「ウィーンにおけるスロヴェニア人の集会」)などとして公開した。そして、51名の書名を付けて、マリボルにいた、皇帝の弟に提出した。しかし、その後、ハンガリーでの暴動の鎮圧に政府が力を集中し、ウィーンの革命が収束したため、この要求は「ウィーンの春」では実現されなかった。だが、この要求は、後のスロベニア統一国家の独立への動きの起点となったのであった。

  

マヤール(左) と ブレイヴァイス(右)


スロヴェニア国立博物館付属図書館のご厚意により撮影させていただいた、「ウィーンにおけるスロヴェニア人の集会」の記事の載った4月20日号の新聞

 マヤールの彫像は、彼が現オーストリアの地の生まれのため、残念ながらスロヴェニア国内には現存していないようである。しかし、現スロヴェニア領内クラーニ生まれのブレイヴァイスについては、故郷にその名を冠した公園があり、その中に彫像が立てられ、またゆかりの品々がリュブリャナ市博物館に展示されている。

 

生まれ故郷のクラーニのブレイヴァス公園とブレイヴァス像


生誕70年を記念して、「国父」ブレイヴァイスに送られた金の月桂樹。リュブリャナ市博物館。



 


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