バルカン半島のスラブ系民族とオーストリア、オスマン帝国。第一次大戦への道


 1914年に始まった第一次大戦では、スロヴェニアはオーストリア軍の一員として真剣に戦った。結果として、オーストリア、ハンガリーが戦争に敗北したため、それらの支配から脱する好機となった。
 この大戦が、ボスニアのサラエボでオーストリア帝位継承者夫妻が暗殺されたことに端を発するというのは、よく知られた史実であるが、なぜこれが大戦争を引き起こしたのか。ボスニアとはどういう歴史をたどり、オーストリアはどう関わったのか。この戦争に参加した国々の思惑は何だったのか。少しまとめてみたい。
ボスニアとは
 一説には、ボスニアはその地を流れる「ボスナ川」から地名が来ていて、ボスナ、とはインド・ヨーロッパ祖語の「流れる水」を意味する語根「bos」からだと言われている。1377年にスラブ人の王が「ボスニア人とセルビア人の王」としてこの地に「ボスニア王国」を建国したので、王はセルビア正教徒だった可能性があるが、すでにそのころ、この国には、セルビア正教、カトリックとともに、偶像崇拝否定や独自の墓の文化(切妻屋根型や箱型の石の墓に渦巻模様や人物を刻むもの)をもつカトリックの分派ボスニア教会などのいくつかの有力な宗教があった。1463年に、オスマントルコに支配されると、ボスニア教会の信者からイスラムに改宗する人々が増えていった。彼らは特にカトリックから「異端」扱いされていたため、偶像崇拝否定を共通とするイスラムになり、トルコ支配下で非イスラムに課されていた人頭税を免れ、他のキリスト教徒より有利になることに利益を見出したと考えられる。このボスニアに接して、南に15世紀に貴族ステパン・ヴクチッチ・コソチャが、ドイツ語のヘルツォーク (Herzog) やハンガリー語のヘルツェグ (herc(z)eg) に由来する「ヘルツェグ(公爵)」の称号を名乗った「ヘルツェゴビナ」という地があったが、ここもオスマントルコの支配下に入り、それぞれボスニア州、ヘルツェゴビナ州とされた。そして、後に記す1878年のベルリン条約により、両地域はひとつの行政単位として再編され、「ボスニア・ヘルツェゴビナ」という名称が国際的にも定着した。かつて独自の王国、公国があったことや、そこに住むセルビア語を話す人々やクロアチア語を話す人々は「セルビア人でもクロアチア人でもない、ボスニア人」という共通意識を持ちつつあったし、ここを事実上支配することになるオーストリアには「セルビアではない別の地域」とした方が都合よかったためであった。
 
 

ベルリン条約関連図(1878年)

オーストリアがボスニアの施政権を得たいきさつと理由、その実態
 オスマントルコ支配下の、バルカン半島のキリスト教徒農民らは、地元のイスラム地主と国家の徴税人から、小作料の他、人頭税を穀物や羊などで支払い、手元に残るものは極めて少なかった。この厳しい税の取り立てに対し、しばしば反乱を起こしていた。正教徒のセルビアやモンテネグロは、このような戦いの中で、19世紀前半に一定の自治権を獲得した。そして、自治権を認められていなかったヘルツェゴビナ、ついでボスニアで正教徒が1875年に大規模な反乱を起こし、これにセルビア、モンテネグロが武器を支援したり義勇兵を送って支援した。オスマン帝国が正規軍を派兵して鎮圧に当たったため、セルビアとモンテネグロの自治政府は正式にオスマン帝国に宣戦した。そして、この地域のこれらスラブ人支援を大義名分とし、実のところはバルカン半島への影響力拡大、不凍港獲得をもくろむロシアも宣戦し、ロシア・トルコ戦争となったのだった。このとき、ロシアはオーストリア帝国が戦争に介入しないよう交渉し、代償として、ボスニア・ヘルツェゴビナの施政権を戦後トルコから奪ってオーストリアに与えることを約束したのであった。戦争には、同様に自治権拡大を求めてブルガリアやルーマニアも参戦し、ロシアの勝利となり、最終的に1878年のベルリン条約で、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立、ブルガリアの自治拡大が認められ、ボスニア・ヘルツェゴビナは、オスマン帝国の領土下に名目上ありながら、オーストリア総督の下、軍が駐屯し、実際の税の徴収、警察、裁判などもオーストリアが行うことになったのであった。オーストリアは、ポーランド人、チェコ人、スロヴェニア人、クロアチア人などスラブ人たちを領土内にもち、プロイセンとの戦争(1866年)による敗北で弱体化が進んでいたため、オーストリア皇帝は1867年に支配下だったハンガリーと共同の皇帝となり、ハンガリーに独自の政府、議会を認めるオーストリア=ハンガリー二重帝国を構築し、ハンガリーの協力を得て帝国の再建に努めていた。次に、自治を求めるスラブ人の統合を前提とする「三重帝国」化の構想も考えられ始めていた。オーストリアにとっては、バルカン半島のスラブ人に支援を強めるロシア、そしてボスニアのセルビア正教徒を「セルビア王国」に統合しようとするセルビアに対抗するため、ボスニア・ヘルツェゴビナの事実上の支配が不可欠だったのだった。

オスマントルコ帝国での革命とオーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合。ロシアとの対立。
 このように、オスマン帝国はバルカン諸民族の反乱、自決の動きや、ロシア帝国やオーストリア帝国の圧力に直面したが、それは、最高権力者、宗教権威者であるはずのスルタンの力が弱まっていて、地方実力者、各種宗教団体実力者、軍隊の実力者たち、治外法権の特権を与えられた外国商人らによる各地での事実上の分権化が進んでいたこと、官僚の腐敗などがあったためだった。そして、諸外国による干渉もなされた。そのため、1876年に改革派官僚だった、ミドハト・パシャが「ミドハト憲法」を制定し、帝国の領土の一体性・不可分性、君主の軍統帥権、条約締結権、行政命令発布権、議会解散権、危険人物の国外追放権、二院制議会などを規定し、スルタンの権限の明文化による中央集権、トルコ「近代化」の提示による海外への牽制を図った。しかし、憲法に対し、これを自分への権力制限だと思った、スルタン、アブデュルハミト2世は、ロシア・トルコ戦争の敗北を口実に、1878年2月に憲法停止を行った。ミドハト・パシャは国外追放された。
 1905年の日露戦争での日本のロシアへの「勝利」(事実はそうはいえないものだが)の原因を、立憲政治による近代化に見たトルコの青年将校、官僚らは「青年トルコ党」を結成し、憲法復活によるトルコ近代化の実現を図った、特に将校たちは、1903年以降のマケドニアでの大規模な反乱鎮圧の最前線に駐屯していて、1908年にイギリスとロシアがこの問題に介入する会議を持ったことで、武装決起し、トルコの近代化と、憲法復活による中央集権明確化で、領土のこれ以上の分割を抑えようとした。1908年7月の「青年トルコ革命」である。

 

革命の成功を祝う青年トルコ人たち(左) と 青年トルコ革命の概念図(右) 鎖を断ち切られた女性はそれまでのトルコが解放された事を示し、空の天使はギリシャ語とトルコ語で「自由、平等、博愛」と書かれたリボンを持っている。

左はhttps://x.com/nadidefotograf/status/1827987101599580331より。右はWikipedia「青年トルコ人革命」より。

 この、トルコの混乱を見て、オーストリアは1908年10月にボスニア・ヘルツェゴビナの自国への併合を行った。すでに実際の施政権を行使していて、自分の国のようなものだったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア正教徒たちの抵抗・独立への動きを封じ込めるためにも、完全な自国領土化、すなわち、オスマン帝国に250万ポンドの償金を支払っての「併合」を行ったのであった。
 しかし、オーストリアの思惑は外れ、かえってボスニアやセルビアのセルビア人の反発を高めた。さらに、オーストリアは、バルカン半島のスラブ人への支援を強めるロシアに、この併合の見返りにダーダネル、ボスポラス海峡の通行権をオスマン帝国から得ることを支持する、という密約をしていたのだが、これにイギリス、フランスがロシアの勢力拡大を恐れて異を唱えたため、オーストリアはロシアのために何もせず、自らのボスニア併合のみを行ったため、ロシアとの対立を深めた。こうしてオーストリアはそれまでのロシアとの協調政策を転換し、ドイツとの協調の道を進むことになった。
 
ボスニア、セルビアで、オーストリア支配に対抗する過激派誕生。「サラエボ事件」(暗殺)勃発
 ボスニアのセルビア人、とりわけ青年の間で、この併合への怒りは強く、1890年代半ばに結成されていた、サラエボなど都市の中等教育を受けた者の文学、哲学サークル「青年ボスニア」が、「南スラブ民族の統一」「オーストリアからの解放」などを掲げる急進的団体へと変わった。また、セルビアの軍人を中心とした秘密暴力組織「黒手組」が結成され、「セルビア人のオーストリアからの解放」「セルビア人統一」などを掲げた。
 ボスニアの貧農セルビア人の子として生まれたプリンツィプは、青年ボスニアに共鳴し、さらに黒手組のサラエボ支部長イリッチと親しくなり、イリッチが中心となって組織したオーストリア帝位継承者暗殺計画の実行犯の1人となり協力した。この計画は10人以上の黒手組メンバーらが策定し、プリンツィプら6人が実行犯として組織された。プリンツィプはセルビアに行き、黒手組からピストルの撃ち方など軍事訓練を受け、武器をひそかにボスニア(オーストリア領)に持ち帰った。
 1914年6月、オーストリア帝位継承者フェルディナント(皇帝ヨーゼフ1世の甥で直系の子ではないため「皇太子」とは言われなかった)は、ボスニアで行われる軍事演習の視察とその後の国立博物館開館式に立ち会うため、列車でサラエボに赴いて来た。彼は、オーストリア領内のスラブ人を統合して、ハンガリーとの二重帝国に次ぐ三重帝国への改変を志向しているとみなされていたため、スラブ人またはセルビア人統合による国家樹立を目指していた暗殺グループの敵とみなされたのであった。
 6月28日、オープンカーにフェルディナント夫妻を乗せた計6台の車列が、サラエボ駅からサラエボ市庁舎に向かって、町の真ん中をほぼ東西に流れるミリャツカ川沿いの道を進んでいった。この沿道に6人の暗殺実行犯が人々にまぎれて機をうかがっていた。途中でそのうちの1人が時限爆弾を夫妻の車に投げつけたが、爆弾は車の畳んでいた幌に当たり、地面に落ち、後続の1台の車の下で爆発し、16-7名にけがを負わせた。残りの車はスピードをあげて市庁舎まで直行したため、ここまではこれ以上の事件は起きなかった。市庁舎で演説をした後、夫妻は予定を変更し、この爆発による負傷者の見舞いに病院まで行くことになった。また、走行経路も、人が多く入り組んだ市街地内の道路(より多くのテロリストがいると考えた)を避け、さきほどの川沿いの道をずっととることに変更した。しかし、この変更は、運転手たちに十分伝わらず、先頭の2台の車が川に架かっていたラテン橋の手前で市街地の方へ右折したため、3台目の夫妻を乗せた車に同乗していたボスニア・ヘルツェゴビナ総督は運転手に右折を止めるように指示し、車は停まった。そのまさに停まったところにプリンツィプがいて、ピストルで夫妻を撃ち、殺害したのであった。プリンツィプはその場で逮捕され、その他の暗殺実行犯、そして背後の計画策定メンバーも全員逮捕された。裁判で、イリッチら成年3人が絞首刑、プリンツィプは当時未成年で、オーストリアの法律では未成年に死刑が適用されなかったため、未成年の最高刑懲役20年が課された。彼は現チェコの刑務所に収監されたが、結核になり、1918年に病死した。(この項の説明は、関連するWikipediaのいくつかをまとめたものである。)


サラエボ事件までの略地図(Wikipedia「サラエボ事件」の地図を簡略化)


  

プリンツィプと新聞に載った暗殺場面の絵(実際には車の踏み台に足を掛けかなりの至近距離で撃った)。
1982年8月現地には「暗殺現場に立っていたプリンツィプの足形」が記念に刻まれていた(私が撮影)。これはボスニア内戦で消滅したが、現在また復活されている(Goog;leMaps参照)。後ろがラテン橋。


第一次大戦勃発。諸勢力の対抗関係。
 オーストリアは、この事件に際し、帝位継承者を暗殺されたことへの怒りと同時に、事件の背後のセルビアへの打撃とその大セルビア主義(バルカン半島のセルビア人をすべて統一して国家を形成する考え)を撲滅させることを考え、セルビアとの戦争を辞さない立場へと踏み切った。7月23日、オーストリアはセルビアに、犯人裁判へのオーストリアの参加、セルビア国内での反オーストリア破壊活動へのオーストリアとの協力、などセルビアが「主権侵害」と判断せざるを得ない「最後通牒」を突きつけた。セルビアと同じスラブ人のロシアがセルビア支援により、バルカン半島での影響力を高めようとしていたことに対し、オーストリアと軍事同盟を結んでいたドイツが、いち早くオーストリアの行為への「白紙委任」(全面支持)を表明していたことも、オーストリアに強気の態度をとらせた。ドイツは、戦争になって支援する場合も、バルカン半島での局地戦を想定していた。25日、セルビアは「最後通牒」について主権侵害以外の項目は受け入れたが、問題の2項目については保留した。オーストリアは、これを「全面拒否」とみなし、7月28日宣戦布告をし、29日、ベオグラードへの砲撃を開始した。ロシアは30日に全軍動員を開始し、ドイツはこれを受けて8月1日、ロシアに宣戦布告し、さらに3日、その協商国フランスにも宣戦した。4日、ドイツのベルギー侵攻に対し、イギリスがドイツに参戦し、ここに多くの国を巻き込んだ戦争が勃発したのであった。
 ドイツは、以前から、ロシアと戦争になるとフランスとも戦うことになる、と考え、電撃作戦でフランスをまず叩き、その後ロシアを撃つという戦略を立てていたため、これを実行に移した。フランスの東部国境防衛ラインが強固なものだったので、中立を表明していたベルギーに侵攻してそこからフランスを攻撃しようとしたのであった。ただし、これはベルギーを支援していたイギリスの参戦を招くという失敗でもあった。
 トルコはこの間、近代化の資金をドイツに頼り、ベルリンからビザンチウムへの鉄道敷設に期待していた。また、スエズ運河とカイロから中東をうかがうイギリスと、従来からバルカン半島やダーダネス・ボスポラス海峡を巡るロシアとの対立から、10月にドイツ側に立って参戦した。こうして、後に「第一次世界大戦」と言われる大戦争へと発展した。ただし、戦争に参加した諸国のどの国も、長い大戦争になるとは予想していなかった。
 スロヴェニア人は、この段階ではまたまだオーストリア支配下にあったため、この戦争での功労により、自らの地位の向上を図ろうと、オーストリア軍の一員として従軍し、主にイタリアと、「イゾンツォ(ソチャ)の戦い」を激しく戦った。イタリアは、元はドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、1861年のイタリア統一時にオーストリア領だった、南チロル地方や、トリエステ、イストラ半島など、イタリア語話者の多かった地域を「未回収のイタリア」として奪取すべく、イギリス、フランス、ロシアから、戦後その地域を獲得させるという旨を得て、オーストリアと戦う道を選んだのであった。
大戦の根本性格
 以上のようなバルカン半島やオーストリア領を巡る対立だけでなく、当時の世界は、イギリス、フランスのグループも、ドイツ、オーストリアのグループも、経済的には国内で「独占資本」と呼ばれる大企業が支配し、原料や市場などを求めて勢力範囲を求め争っていた。したがって、この戦争は大国グループ同士が勢力圏拡大を求めての「帝国主義戦争」だった、と言われる。イギリスは、カイロ(Cairo)、ケープタウン(Cape Town)、カルカッタ(Calcutta)の3都市を結ぶアフリカ、インド洋を勢力範囲とする3C政策で、ドイツのベルリン(Berlin)、ビザンティウム(Byzantium=イスタンブール)、バグダード(Baghdad)を鉄道で結ぶ構想(3B政策)に対抗しようとして、両者を中心に衝突したのであった。

第一次世界大戦のヨーロッパ諸国の関係  出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)



①Wikipedia「ボスニア・ヘルツェゴビナ」より
 原出典:WilliamMiller Essays on the Latin Orient. Cambridge. p. 464.
②Wikipedia「ヘルツェゴビナ」より
 原出典:Šabanović, Hazim (1959). Bosanski pašaluk: Postanak i upravna podjela. Sarajevo: Naučno društvo Bosne i Hercegovine.

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