中国からの独立を求めつつ南のチャンパへ侵攻

---呉朝の南漢との戦い→丁朝→前黎朝の宋との戦い→李朝からの「外王内帝」方針と南への侵攻→陳朝のモンゴルとの戦い


 私たち日本人は、朝廷が遣唐使や留学生を派遣してまで唐の律令制を模した体制を作ろうとしたことを知っているため、唐の律令制度は完璧なものだと考えるが、内情は違っていた。すなわち、「その実現や維持には多くの困難があった。実際には、全国で一律に土地を配分することは不可能で、兵役も一部の州の農民にのみ課せられていた。・・・8世紀初めに体制の立て直しをはかった玄宗は、農民からの徴兵をやめ、傭兵を用いる募兵制を採用して、辺境においた節度使に軍団を指揮させた。」(山川出版社 高校世界史探究教科書 『詳説世界史』p51)。
 節度使はそれまでの州の役人と違い、独自の軍編成権と指揮権、州や県の役人の任免権、税の徴収権、外交権などをもつ独立的な権力者で、しかもその地位は世襲されることが多かった。中央権力がそのような役職を設置せざるを得なかったのは、辺境の異民族が強力になったためである。
 
 ベトナム北部に置かれた交州は他の州と合わさって、「安南(あんなん)節度使」の支配下に入った。ここを脅かしていたのが、「南詔(なんしょう)」という、現在の中国雲南省大理市を中心として栄えた、チベット系の白(ペー)族を中心とした国家であり、また足元のベトナム民衆の反抗であった。安南節度使はこれらの動きに対抗していたが、863年にその役所、安南都護府は南詔による攻撃で1回陥落した。安南節度使は866年奪回して、現ハノイに大羅(だいら)城を築くが、今度は880年に地元のベトナム民衆の反乱で、中国人の節度使は逃げ出し、このベトナム北部は唐の支配の及ばない地方となった(『新唐書』南蛮伝より)。
 この後、ベトナムの地方実力者たちが勢力を争ったが、ベトナム人曲承裕(クク・トゥア・ズー)が906年、自ら安南節度使に代わる「静海軍節度使」を自称した。唐はこの1年後の907年に滅亡し、なすすべもなかった(ベトナムの正史とされる『大越史記全書』外紀)。
 
 唐が滅亡した後、黄河中流域では「皇帝」を名乗る、後梁(こうりょう)が興り、後に四つの王朝が興亡した(五代)。そのほかの地域では、節度使の流れをくむものなど10余りの国が興亡した(十国)。十国の中には漢の劉氏の後裔と自称し「皇帝」を名乗る「南漢(なんかん)」もあった。
 917年、曲承裕の孫の曲承美(クク・トゥア・ミー)は、後梁に使者を送って服従し、正式に静海軍節度使の位を授けられた。
 しかし、後梁が滅んだ後、930年、南漢がベトナム北部に侵攻、占領した。曲承美は抵抗できず捕らえられ、南漢の広州に送られてしまった。
 931年、曲氏に仕えてきた将軍の楊廷芸(ズオン・ディン・ゲ)が軍を率いて南漢軍を撃退し、自ら静海軍節度使を名乗った。

936年頃の五代十国の勢力図。後晉は五代の一つ。朱色の部分が曲氏から呉氏までのベトナム実力者の支配範囲。黒丸が大羅城。


 937年に、楊廷芸は部下の矯公羨(キエウ・コン・ティエン)により殺害された。これに対し、楊廷芸の娘と結婚していた将軍、呉権(ゴー・クエン)が、敵を討つべく進軍した。すると、矯公羨が南漢に救援を求めたため、南漢は「皇帝」自ら軍を率いて陸から侵攻する構えを見せた。呉権は、南漢軍を海から白藤江(バックダン。江はダンに内包されているとして読まない)という川に誘きいれる作戦を考え、川に仕掛けを作っておくことにした。数千本の木を長く伐って、その先を削って鉄で覆い、河口近くの川底に打ち込み、それらの杭が満潮時に見えないようにしておいたのである。白藤江は満潮時と干潮時の水深の差が3メートルにも及ぶ川であった。
 938年末、南漢軍が海から襲来したが、呉権は小舟の一団を囮にして敵を白藤江に誘い込み、杭が沈められている地点を越えさせた。そして、干潮になりかけた時、呉権は全軍を上流と両岸から出撃させて迎え撃った。あわてて海へ後退しようとした南漢軍は、突き出てきた杭のため退路を失って大混乱となり、そこを小舟で杭を避けながら突進して来た呉権軍に襲撃され、船を捨てて川にとび込む者が続出したが、殺されたり溺死した者は半数にも及んだという。残った南漢軍が撤退し、呉権はこの白藤江の戦いで大勝利を収めた。呉権は矯公羨を殺した。
 939年、呉権は節度使ではなく「王」となり、古螺(コーロア 現ハノイ市ドンアイン県)を都とした。これによって、10世紀以上に渡った中国の実質的、形式的な支配(現地支配者に「節度使」の地位を与えること)は終わり、ベトナム人の独立と主権が確保された( 『大越史記全書』外紀・呉紀より)。ベトナムの独立は強国との戦いの勝利によってもたらされたのである。

 

現在白藤江の戦いを記念する建物がある場所。右は、国立歴史博物館の戦いのジオラマ。左に黄色い「呉」の旗、川に打った杭、小船で南漢の大軍船と戦う呉の兵などが見られる。


 この、呉権が都を置いた古螺(コーロア)の地は、紀元前3世紀ころ、三重の土塁とその間の堀が作られた一種の城塞国家「甌雒」(ベトナム語読みでアウラック。日本語読みでおうらく)が作られた場所で、中国の史書『漢書』南越伝などでも触れられている。呉権はその地を都として選び、自らの歴史的正統性を押し出したと考えられる。2025年12月現在、後世に作られた呉権を祀る「呉廟」や堀の跡である大きな池が存在する。また、大規模プロジェクトとして、呉廟を拡大する建築工事が行われている。

 

コーロアの場所と呉権を祀る呉廟

  

呉権像と堀の跡と言われる池。

 
 しかし、944年、呉権が亡くなると、その子供たちがまだ若かったので、国は不安定となり、965年以降は各地の土豪たちが争うようになった。
 この争いの中で、丁部領(ディン・ボ・リン)という人物が何人かの土豪と同盟し、他の土豪たちとの戦いで連戦連勝し「万勝王」と呼ばれ、968年再び国を統一した。彼は「皇帝」を名乗り、国名を中国から付けられたものではなく大瞿越(ダイコーヴェト)国(瞿は「大きい」の意味で「大いなる越の国」という意味)とし、自らの故郷である華閭(ホアルー。 現ニンビン省ホアルー)に都をおいた。初めてベトナムで中国とは違う年号を立てて太平(タイピン)とした。自らは「大瞿越皇帝」と名乗った。そのため、北ベトナムが中華王朝から真に独立したのは、丁朝の時代からだとする意見もある。


 このホアルーについては、これを含む景観が「チャンアン複合景観」という世界複合遺産となっている。
https://vietcam-oh.com/blog/local/2018/11/000890.html  や
https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/hoa-lu-district/temple-of-emperor-inh-tin-hong-142649166?curr=JPY&locale=ja-JP などを参照すると写真が見られます。
 
 このようにベトナムでは、国王または「皇帝」を名乗って王朝ができていても、王の地位を継いだ者が、幼かったり、力が弱かったり、悪政を行ったりすると、別の家系の者がその王朝を武力で倒したり、力づくで位を奪ったりして、長い歴史で、次々と新しい家系の王朝が作られては滅んでいった。このサイトはベトナムの歴史の大局を説明するもので、各王朝の詳細には立ち入らず、共通する重要な事項についてのみ触れる。
中国(明)に再び直接支配されるまで興亡した各王朝の興亡の詳細は次の表にまとめた(一部カタカナがダブっているところは最初の文字がパソコンソフトの限界から、漢字で出せないためである)。
王朝名 国名 存続期間 始祖 建国のいきさつ
丁(てい)朝 大瞿越(ダイコヴィェト、「偉大な越」の意) 966~980 丁部領
(ディン・ボ・リン)
華閭(カリョ。   現ニンビン省ホアルー)。丁の故郷 呉朝は、まだ地方の土豪たちの力が強く、965年以降、12人の有力土豪の争う時代となった(十二使君時代)。この中で頭角を現わした丁部領が再統一。

前黎(ぜんれい)朝 同じ 980~1009 黎桓
(レ・ホアン)
同じ 979年丁部領が宴会で酔って眠っているときに部下に殺されると、その死を知った宋が安南への出兵を決定。新皇帝は幼かったため、宋の侵攻を前にして丁朝の将兵は、将軍黎桓(レ・ホアン)を摂政に推した。丁部領の皇后の一人だった楊雲娥(ズオン・ヴァン・ンガ)は、子の皇帝ディン・トアンを守るために、軍事の権限をもっていた黎桓と再婚し、新たに黎桓が帝位に就いた。呉権と同様の戦術をとり、白藤江で戦いを挑んだが準備不十分で敗れた。しかし、最後には奇襲して宋軍を破った。後に黎桓は北宋からの冊封を求め、北方の契丹の脅威に晒されていた北宋も、南方の安定のため、黎桓を冊封、997年には南平王に封じて前黎朝を承認した。なお、後世に別の黎朝ができたため、こちらは「前黎朝」として区別する。
李朝 大越 1009~1226 李公蘊
(リ・コン・ウアン)
=李太祖
(リ・タイ・ト)
昇龍        (タンロン。現ハノイ)
痔を患っていた前黎朝第3代「皇帝」レ・ロン・ズィンは臥したままで政務を執ったため、「臥朝皇帝」と言われていたが、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだ暴虐で過酷な統治に人心は離反した。1009年、臥朝皇帝は死ぬが、皇太子は10歳と幼く、官僚たちは近衛隊長の李公蘊を王に推挙した。李公蘊は兵を率いて黎一族を討って皇位を奪った(幼帝を殺したとも言われる)。
陳朝 同じ 1225~1400 陳カイン
(チャン・カイン)
同じ 李朝の8代リ・サム=恵宗が国民が飢餓で窮迫し各地で反乱が起き、盗賊がはびこっても政治を人任せ。外戚の陳守度(チャン・トゥ・ド)に鎮圧依頼。1224年、陳は恵宗を強要して廃し、その娘である7歳の李仏金(リ・パット・キム)を擁立した。1226年、李仏金と陳守度の従甥(いとこの子)の8歳のチャン・カインを結婚させて皇位につけることで、陳朝を開いた。同年、寺に隠棲していた恵宗を自殺に追い込む。さらにその葬儀に集まった李氏の一族を李仏金とその姉以外殺害。

 前黎朝(後に同名の黎朝が現れたのでこのように言って区別する)が成立した時期、981年、丁朝が滅ぼされたことを理由に中国(宋)が侵攻して来た。黎桓は呉朝の戦術に学び、白藤江に杭を打って応戦したが、準備不足で敗れてしまった。そこで彼は、偽りの降伏文書を宋軍に送り、油断して陣を緩めた隙をついて夜襲をかけ、司令官を戦死させたため、ついに引き上げさせたという(『宋史』・『大越史記全書』などによる)。

 1010年に建国された李朝から、ベトナムの王朝の特筆される特徴が見られることになった。
 すなわち、李公蘊(リ・コン・ウアン)は国内で自らを「大越皇帝」と名乗ったが、中国に対しては貢物を送り、「安南王」としてその支配下の体制(冊法体制)に入ったのであった。こののちの王朝の君主もすべてこのような態度をとり、これを「外王内帝」と言う。これはベトナム王朝の決定的特徴と言える。

 李朝には現在のハノイを都として栄えさせた功績がある。李公蘊(リ・コン・ウアン)が船で大羅城(現ハノイ)に近づいたとき、忽然として船の傍らに黄龍(または金色の龍)が現れた。群臣はこれを大いなる吉兆とみなし、李公蘊は大羅城を昇龍と改名した、という伝説がある。昇龍は、前後が山河で便利であり、平地が広がり、地形が高くて日当たりがよかったため、都に適していた。
 紀元2010年はハノイ遷都1000年記念、として盛大に祝われ、いくつかの関連史跡が作られた。
 2004年に完成したものだが、この記念事業の一環として、第2代皇帝李太宗(リ・タイ・ト)公園が整備され、リ・タイ・ト像が作られた。

  

リー・タイ・ト公園の位置とリー・タイ・ト像。像への階段に皇帝のシンボルである龍の手すりを付けるなど芸が細かい。


 2010年には、ハノイ市内を北西から南東に流れる紅河(こうが)の堤防に約6.5kmにわたって有名なロンビエン橋まで、ハノイ所縁の建物の絵や、子供たちの自由な発想による様々な絵が、近郊の有名なバッチャン村で焼いたタイルを使って描かれた。これも李朝によるハノイ(昇龍)遷都1000年の記念事業で、その長さはギネスブック認定となった。

これはずばり遷都そのものを記念しているものだが、全体のほんの一部である。


 昇龍(タンロン)城は、その後のいくつもの王朝が建築を重ねたため、李朝時代のものを特定しにくいようだが、発掘成果を示すパネルが展示されていた。この遺跡は「タンロン王城遺跡中心地区」として世界文化遺産に登録されている。



 リー・タイ・トはまた、仏教を信仰し、皇帝の力を示すため利用した。故郷に8つの寺院を建て、都にも多数の寺院を建て、都に住む1000人以上の人々が僧になるのを認めた。彼の建立した寺院で有名なのは、池の中に立つ一本の太い石柱の上に建てられ、観音像を祀る一柱(いっちゅう)寺である(→私のスケッチ・大乗仏教参照)。これは水面に咲く1輪の蓮の花を象徴している。伝説として、ずっと子宝に恵まれなかったリー・タイ・トがあるとき池の蓮の花の上に子供を抱く観音の夢を見たとき、子供ができたので、観音に感謝を込めるため、このような寺を作ったという。この後の子孫の皇帝たちも仏教を保護した。
 このリー・タイ・トの1044年、李朝はベトナム中部から南部に勢力を拡大していた、チャンパ王国に遠征し、現在遺跡が世界文化遺産になっているミーソンの聖地などを破壊し、チャンパ王国に決定的打撃を与えた。
 チャンパ王国は、2世紀頃からベトナム中部の沿海地方に成立した王国で、その担い手であるチャム人は、マレー、インドネシア系に近いオーストロネシア語族であった。海洋進出を盛んに行う中で、インドのようなヒンドゥー教寺院を中心とした文化を導入した。ミーソンはその聖地だったが、リー・タイ・トの大遠征で破壊され、チャンパの王は戦死した。


現地の全遺跡案内図

残念ながら天候は良くなく、鷲の頭に似た山の頂上がもう一歩見えなかった。この聖なる山の麓にあることがミーソンが聖地に選ばれた理由。左の遺跡はBCD群

 各グループごとにABCDなどアルファベットが付けられている。一番建物として重要だったのは、A群で、7世紀から10世紀のもので、王が祭祀を行った場所である。


私はA群には行かなかったので、ACワークスフリー素材「うめこの旅」さんより


 B、C、D群は、このミーソンで祀っていたシヴァ神を表すリンガや、それを受け入れる大地を示すヨニを祀っていた神殿群である。王が代わるたびごとに古い神殿を破壊、修復したり、新しいものを建てたりするので、これらは単に場所的なグループ分けであり、それぞれの要素の神殿が同時に存在した時もあったし、時代的に異なるものもあったりで歴史年代的には雑然としている。シヴァ神はヒンドゥー教の主神の1つで、世界の破壊と世界の破壊と再生を行うものとされる。基層の古いものは4世紀にまでさかのぼるものもあるという。こちらのBCD群はA群に比べて保存状態が良い。それぞれの建物は、材料は煉瓦を使い、基壇の上に内部空間を持つ主要部分とその中に祀られるリンガ、ヨニを置き、屋根はピラミッド的重層になっている。壁面には様々な神々の像も見られる。



   
  いくつかの神殿


壁面。ベトナム戦争の時の銃弾の痕跡が多く見られる。

 
(左)シヴァ神を表すリンガ。男性原理。 (右)ヨニ。女性原理で大地、母性、受容の象徴




 第3代皇帝李日尊(リ・タイ・トン)は国号を大越(ダイヴィェト)と改め、これはその後の歴代王朝が継続して使った。彼はまた1070年に文廟(ヴァンミョウ)として昇龍に現在まで残る孔子廟を建設したが、これは皇帝の権威を示すために使われ、儒教を学んだ文人を官僚に採用する科挙は李朝ではほとんど行われなかった。現在、文廟は大学受験に臨む高校生たちの合格祈願のための場所となっており、私が12月に訪問した時、ちようど土曜日で、多数の若者たちが祈願に訪れていた。代表が文房具などを奉納し、線香を手に持ち、太鼓や鐘の合図で一緒に合掌していた。私のベトナム人ガイドの話では、卒業するまでに1回は来るのが義務だとのこと。ベトナムでは、孔子は日本の天神(菅原道真)のような、学問の神様である。共産党政権の国で、このような一種の宗教的儀礼がなされているのは興味深かった。

  

女子生徒は白いアオザイの上に紺色に赤い縁取りの付いた制服のようなものを着ていた。


孔子像

 
左の写真の赤色の被り物と服の男性が指揮をして礼拝を指導した。その周りの人々は学校代表と思われる。外には多くの生徒たち。

ハノイの街には文廟と蓮をデザインした街灯装飾パネルがあった

 
 次の陳朝のとき、日本と同様、モンゴル、元軍が襲来する。しかも三度に渡ってであった。
 第一次侵攻は、ベトナムの正史『大越史書全書』陳太宗紀によると、1257~58年の数か月にわたった。雲南から陸路を大越に侵攻し、戦っていた宋を挟撃する通過が目的だったと考えられる。しかし、陳朝はモンゴルの進路を阻み、迎撃したが、不利になったので昇龍(ハノイ)を放棄した。ただし、モンゴル軍は疫病が流行ったため引き上げた。
 第二次侵攻は、正史『大越史記全書』陳聖宗紀、陳仁宗紀によると、1284~85年にかけてで、陸路、大越の北と南から攻め込んで来た。陳朝は昇龍を焼き払って食糧が渡らないようにし、山に籠ってゲリラ戦術を行い、元軍は食料不足と疫病によりまた引き上げた。
 第三次侵攻は、正史『大越史記全書』陳仁宗紀によると1287~88年にかけてであった。元軍は食糧不足になった経験から、今度は大補給船団・水軍も伴って大規模に侵攻した。皇帝陳仁宗の従兄弟である陳興道(チャン・フン・ダオ)が軍最高司令官として、侵攻前から陳朝も軍艦を建造したりして準備した。そして、元の補給船団を待ち伏せしてほぼ壊滅させ、食糧供給を断った。また前回同様、昇龍を焼き払った上、長期のゲリラ戦に持ち込んだ。そして、引き上げに入った元軍を、かつての呉軍がとった、白藤江に杭を打ち、そこに誘い込む戦法をとり、火攻めも行い、襲来した元軍に壊滅的打撃を与えた。
 現在、白藤江の戦いがあった場所は、往時の杭も発見され、ベトナムの独立を守った場所として大きく記念されている。それは呉朝の白藤江の戦いを記念するのと同じ場所にある。また、陳興道は各地に像や廟が立てられ、救国の英雄として顕彰されている。
 なお、かつての中国の安南都督府への反乱や、侵攻して来た南漢、宋、元などの外敵との戦争に、例のベトナムの「村の動員力」が大きな役割を果たしたであろうことは容易に想像できる。


陳軍(赤旗)が白藤江で元軍(青旗)を川底に隠して打った杭で動きを止め、火攻めや小船で打ち負かしている図(国立歴史博物館)


戦いの場所に打った杭の様子が復元されている。ここでは干満の影響を受けないようにされている。


実際に使われた元船を阻止した杭


記念の場所には、杭を作り川底に埋め込む作業の像もある。

  
ホーチミン市にもある陳興道像


 この「陳朝では、ベトナム語を書くために、漢字を利用したチュノムと呼ばれる文字がつくられた。」(山川出版社 高校世界史探究教科書 『詳説世界史』p62)
チュノムは、漢字でと書き、直訳すると「字・ベトナム語」という意味である。ただし、残念ながらこの陳朝の時代のチュノムの使用された文書は公開されていない。イメージをもつため後世のパブリックドメインのものを例示してみよう。


 これは、Abel des Michels(1871)の『Dialogues Cochinchinois』で、フランス語話者向けのベトナム語教材であり、語彙・例文・会話文をチュノムで示す語彙集・例文集・会話文の素材集のようなものである。一貫した物語や論理展開はなく、日常・儀礼・建築・軍事・感情などの語彙が並列的に並んでいる資料である。私が赤や黄色や青の□で囲ったところがチュノムで、赤いの字は「2」の意味を「二」で示し、「2」にあたるベトナム語をhaiハイと発音するので、ベトナム語で同様に発音する「台」を付けて合わせてチュノムで「2」の字を示したもの、同様に青いは「3」を示す漢字「三」とベトナム語「3」の発音baバーを「巴」で示して合わせたもの、黄色で囲んだものは英語で「year」を示す字で、同様に意味を「年」、ベトナム語発音nâmナムを「南」で示したものである。このようにチュノムは漢字2文字で音と意味にあたるものを組み合わせたものが多い。公文書は引き続き漢文で書かれたが、チュノムは民間の文学者などが、それも漢字と混合して使われることが多かったという。
  
これは **語彙集・例文集・会話文の素材集**のような構成であり、  
**一貫した物語や論理展開はない**ものの、  
**日常・儀礼・建築・軍事・感情などの語彙が並列的に並んでいる**資料です。
 このような独自の文字がつくられ、使われたということは、モンゴル・元軍の侵攻を撃退してベトナムの独立を守ったことと密接に関連しているだろう。
 なお、チュノムの説明は、各種百科事典からまとめた。


  

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