1000年以上の中国支配時代
ベトナム北部の地に、ベトナム人(キン族)の「南越」という国があったが、紀元前111年に前漢の武帝の軍が攻撃をかけて支配下に置き、中国の一部として交趾(こうし)郡とした。 こうして、ベトナム北部は何と939年の呉(ご)王朝成立まで、約1050年の長きにわたり中国の一部となったのである。
『漢書』南越列傳(なんえつれつでん)に「元鼎六年,遣路博德、楊僕擊南越。斬其相呂嘉,虜其王建德。南越平。」とあり、訳すと「元鼎(げんてい)6年(紀元前111年)、武帝は路博徳・楊僕を派遣して南越を攻撃した。南越の宰相である呂嘉を斬り、王である趙建徳を捕虜とした。これにより南越国は平定された。」と読める。また、『漢書』地理志には、南越国滅亡後に設置された郡の一覧が記載されており、 その中に交趾郡がその地に設置されたことが書かれており、この郡は後漢以後唐の時代まで、他の郡と一緒にされ交州(こうしゅう)に再編されたが、ずっと1つの郡として存続した。
さらに、15世紀に成立した、ベトナムの正史とされる『大越史記全書』にも同様の記述がある。しかし、かつての「南越国」の史跡も、交趾郡の役所の史跡も、未だに確定されるものが発見されていない。後のベトナム王朝が宮廷を置いていた、世界文化遺産となっている現ハノイのタンロン城が郡の役所の最有力候補であるが、後のフランス支配時代に徹底的にほぼ全体が破壊されたため、いまだにその年代層の確定ができず、発掘が続いている。

工事? 発掘中?のタンロン城の一角(2025年12月)。ピンクのラインを付けたところに、この中国支配時代のことが触れられている
中国の役所跡が見つかっていなくとも、ベトナムが中国から大きな影響を受けたことは、漢字、箸を使う食文化、道教の神々の信仰、大乗仏教の伝来、導入などの文化面で明らかである。赤い色をおめでたい色とするのもその1つであろう。また、独立王朝が成立してからの、宮城の建物の様式、ベトナム王が自らを「皇帝」と称し、龍をシンボルとし、黄色い服や瓦を独占的に使用し、印を用い、儒教や科挙を導入し、また中国のを真似た「省→府→県→社」などの階層的地方行政制度や貨幣を作ったことなどにも影響が及んでいる。