1968年3月16日
1968年3月16日、悍ましい悲惨な事件が起こされた。詳しいことは知らなくとも、多くの人がその名を聞いたことがあろう「ソンミ村虐殺」である。今回のツアーでその地を訪れ、跡地に建設された記念館の展示内容などや現地ガイドの説明、そこで購入した『A LOOK BACK UPON SON MY』という小冊子、さらにホーチミンの戦争証跡博物館の展示、「Wikipedia ソンミ村虐殺」や関連するアメリカ兵についてのサイトで知ったことをまとめてみたい。ソンミ村であるが、位置は地図に示す中部の現クアンガイ市ティンケー社というところである。クアンガイ市中心から北東に11kmである。当時「ソンミ村」といわれ、この中に4つの集落があり、とりわけその中のMỹ Lại(ミライ)集落で、全く無抵抗な住民507名中504名に対する一方的な殺戮が行われた。
これを行ったのは、アメリカ陸軍第20歩兵連隊第1大隊C中隊のウィリアム・カリー中尉が率いた第1小隊などであった。正確な人数は不明だとのことだが、ネットによると当時の小隊の人数は一般に30~50名である。
『A LOOK BACK UPON SON MY』によると、この日の朝、9機のヘリコプターが村の西の田んぼに着陸し、また11機が東の乾いた地に着陸し、無差別殺戮が始まった。現地博物館の公式発表によると、殺された504名の内訳は、成人男性149名、成人女性182名(うち妊婦17名)、子供173名(うち生後5カ月未満の乳児56名)である。(Wikipediaでは成人女性を183名としているが、そこに記載している合計数504人とは数が合わないのでこの記述は誤っていると思う。)
「ソンミ跡」と書かれた記念館
当日着陸したヘリコプター群と降り立った兵士たち(館内の展示より)
虐殺に使われたマシンガンなどの武器と狙撃するアメリカ兵(館内の展示より)
犠牲者504名の姓名(名前のアルファベット順)、年齢、男女別が一覧できる碑。ここをクリックすると拡大して見られます。男性はnam、女性はnữ。乳児は皆1歳となっている。
館内の虐殺シーンの再現
『A LOOK BACK UPON SON MY』には残酷な事が記述されている。これは英語で書かれているので、私が誤って読み取っていたらお許し願いたい。食事中のところを襲われ、子供の中には炊いた米やサツマイモを口にしたままの者がいた。多くの人がシェルターに隠れているところを引きずり出され殺された。女性はかなりの人が性的暴行を受けてから殺された。この冊子には、具体的に6名の被害者の固有名詞が記載されており、14歳から60歳の女性に及んだ。そのうちのある人は妊娠していたが、最後は銃剣で腹を突き刺されて、胎児は取り出されて脚を折られた。ある若い女性は皆の前で裸にされ、「ベトコン(アメリカが解放戦線のことを『ベトナムのコミュニスト』とした蔑称)の売春婦!」と嘲られた後殺された。ある女性は何回も撃たれて、骨がバラバラになって飛散した。一人の仏僧も殺された。殺されて井戸に抛りこまれた人もいた。彼らの家屋はすべて燃やされ、死体ばかりか生きたままの人々もその中にくべられた。用水路(脇?)に並べられた、40~50名のグループ、70~75名のグループがそれぞれ前に倒され一斉に殺された。家畜も皆殺された。 等々・・・後に、米兵の証言もなされたが、犠牲者は全員無抵抗で、米兵の負傷は、自らの足を撃った黒人兵だけだった。もし、解放戦線の村だったら、何かしかの抵抗があっただろうが、何の抵抗も無かった。まさに一般住民の無差別大量虐殺であった。Wikipedia「ソンミ村虐殺事件」によると、このことがなされた理由は、「本多勝一は、この村が虐殺の対象となったことについて、戦後のベトナム訪問時に当地の党委員長から、クアンガイ省は革命の伝統が強かったため『戦略部落』として指定された地域への住民移住が進められ、両隣のツーギア郡とビンソン郡では強制移住が完了していたが、ソンミを含めたソンティン郡では住民の拒否が強く進んでいなかったので、テト攻勢の結果、危機感を強めた米軍が近隣への見せしめにしたのではないかとの推測を聞いている。」とのことである。この事件のことは伏せられていたが、このとき同行して撮影の任務にあたっていた陸軍軍曹のロナルド・ヒーバリーRonald L.Haeberleが、白黒フィルムを入れたカメラ2台、カラーフィルムを入れたカメラ1台で現場を撮りまくっていた。彼は自らの良心に従って、白黒フィルムだけを軍に提出し、2カ月後に、名誉除隊(任務を果たし終えた、という名誉の除隊証明書をもらっての除隊)した。オハイオ州クリーブランドで身の危険を考えてずっとそのままにしていたが、持ち続けていた18枚のカラー写真を「The Cleveland Plain Dealer」新聞に提供し、同紙は1969年11月20日に彼の証言とともにそれらの写真を掲載し、さらに彼はそれらの写真を有名な「LIFE」誌に売り、同誌は12月5日号にそれらを掲載した。これらの写真はたいへん生々しく事件を示すもので、アメリカ人や世界中の人々を驚かせ、反戦運動の機運を高めた。 これらの写真を見たい方はここをクリック。(いずれもソンミ記念館より掲載許可をいただいています)
ロナルド・ヒーバリー
展示されていた遺品
犠牲者を供養するための祭壇。三つのうちどれを指すのか忘れてしまったが、生まれる前に殺された胎児のためのものもあるとのこと。
大量虐殺のあった用水路
慰霊碑。像の中の右で倒れている2人は、小さな子をかばいながら殺された少年(ヒーバリーの写真より)を示したもの。
「1970年、虐殺事件の調査を行っていたアメリカ陸軍調査委員会は事件に関係した容疑者の告発手続きを開始。上官への報告を怠った将校を含め14人(将官2人、佐官8人、尉官4人)が職務怠慢ならびに陸軍規則違反で告発、容疑者を現職から解任、うち12人は免職した上で陸軍第一軍司令部付きとした。同年5月18日にジョージア州フォート・ベニングで始まった軍事法廷では、この虐殺に関与した14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決では、部隊の指揮を執っていたカリー小隊長に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放とれる。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
カリーによれば、虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。カリーは『全て殺せ』と解釈される命令をメディナがしたとし、メディナは『全ての敵を殺せ』と命令したものだと主張し、この点が法廷では最大の焦点となった。メディナ自身は結局、免訴されている。」
、 (Wikipedia「ソンミ村虐殺事件」より)
悲惨な事件の展示を見たり、説明を聞いて暗澹たる気持ちになったが、唯一少し明るい気持ちにしてくれ、そして今回のベトナム旅行で一番印象に残ったのは、次のアメリカ兵らの良心的行動の事を初めて知ったことであった。この虐殺のあったところに、たまたま別の任務(解放戦線の動きの偵察)のためヘリコプターで通りかかった、グレン・アンドレオッタGlenn Andreotta機長、ヒュー・トンプソン・ジュニアHugh Thompson Jr操縦士、ローレンス・コルバーンLawrence Colburn射手が惨劇を目撃した。彼らは様子から、禁止されている民間人の大量殺戮だと判断し、現場に降り立ち、いた指揮官たちと押し問答した後、まだ生き残っていた住民11名と、それ追いかけようとしていたアメリカ兵たちとの間にヘリコプターを移動させ、特にトンプソンは間に入り、2人に「アメリカ兵が住民や自分を撃ってきたら、撃ち返してくれ。」とたのんで了解を得て、それ以上の虐殺を阻止した。アンドレオッタは用水路に重なった遺体を動かして、その山の中から一人の生きていた子供を助け出した。彼らは、別のヘリコプターを説得して住民を乗せ、病院に運んだ。そして、この村の状況を基地に戻ってから上官に報告し、それがこの作戦全体の総司令官に届き、現場に中止命令が出たのであった。この話だと、「12名の生存者を助けた」とあるが、3名のみ生き残った、とする記念館の説明と数が合わない。そのうち何人かが結局病院で亡くなったのか、あるいは他のところでも虐殺をしたとも言われているので、そちらの話なのか、それは分らなかった。ただし、彼らが軍紀を守り、尊い人命を救ったのは事実である。彼らは「裏切者」などとレッテルを貼られたりしたが、後にアンドレオッタ(その後戦死していた)とコルバーンの2人は、敵との直接的な戦闘を伴わない勇敢な行動に対して授与される、アメリカ陸軍最高の勲章であるソルジャー・メダルを授与された。また、1999年、トンプソンとコルバーンはピース・アビー良心勇気賞を受賞した。トンプソンとコルバーンは戦後ソンミの地を再訪している。彼ら2人も癌のためすでに他界しているが、彼らの良心的英雄的行動は、現地の記念館やホーチミンの戦争証跡記念館に展示されている。また、1998年には民主党上院議員クレランドによって「3人はアメリカの愛国主義の最も優れた真の模範」という演説を受け、上院の議事録にその名が記録されている。
左がトンプソン、右がコルバーン
関連して思ったことは、私のサイトhttps://m-mikioworld.info/usaviet.htm
「民主主義の深さ」で示したが、2006年に訪問した、USAワシントンの国立歴史博物館で、この虐殺があったことなど、USAは自らの戦争で犯した過ちや、戦争に反対した人々がいたことを写真入りでちゃんと常設展示していた(現在どうなっているかは不明)。彼らの行為やこれらの展示に、日本人も学ぶべき「良心」を強く感じる。