お城はスロヴェニア人のものではなかった---支配者はオーストリア貴族たち


 お城は観光対象の花形であり、スロヴェニアにもいくつもお城が現存している。しかし、それらは、スロヴェニア人を支配して来た非スロヴェニア人が建て、長い間所有したものである。私の歴史のサイトはスロヴェニア人の自覚の成長を追い、記述するのが目的なので、その支配者たちの歴史は、系統的にではなく、お城を中心に散発的にのみ記す。
 一番「絵になる」のはブレッド城であろう。ブレッド湖のほとり、湖面から高さ約100mの断崖に聳えている。


 この城が最初に史料に現れるのは、東フランク王国から発展したドイツ王国の国王だったハインリヒ2世(後に神聖ローマ皇帝)が、イタリア北部の支配に宗教面で協力した報酬として、自らのブレッドの支配地と城を、1011年、ブリクセン(現イタリアのブレッサノーネ)の司教に譲渡したときの文書である。スロヴェニアで一番古い城だとされている。しかし、その後、司教は領地と城の直接管理を放棄して、ドイツ語圏貴族と思われるコンラート家に任せ、さらに管理者の貴族は次々と変わっていった。そして19世紀初めにはナポレオンの支配下となり、フランスが所有した。フランス撤退後は、司教の所有に戻ったが、1848年に封建制度が廃止されると、実業家が買い取り、ホテルやレストランとしての経営が計画されたりした。第二次大戦後、ユーゴスラヴィア連邦の支配下で、現在のような外観に改装された。
(以上、https://www.blejski-grad.si/en/discover-the-castle/history/ 「blejski-grad」のサイトの翻訳より )
 現在、城の中の多くは博物館となっている。個人的には、16世紀のものといわれる礼拝堂が価値を持つように思った。

 

城までは途中階段も整備されている30分以内の登りで行ける。左が城内の案内図。右写真の前に出ているところが礼拝堂。

  

展示の一部。左はドイツ王と司教。右はスラブ人。


  

礼拝堂


 ブレッド城に比べれば、街中にあるので簡単に行けるのが、マリボル市にあるマリボル城である。15世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によってオスマントルコ帝国の侵攻からの防衛を強化するために要塞兼邸宅として築かれた。市は1532年と1683年の2度、オスマントルコ軍に包囲された。城はオーストリア貴族のWalseeヴァルゼー家が所有した後、様々な貴族の手に移り、1727年以降、Brandisブランディス伯爵家の所有となり、新たな階段が追加され、騎士の間が完成した。1933年に当時の市が城を購入し、1938年にマリボル県立博物館が移転した。
(Wikipedia「マリボル」「Maribor castle」「Lord of Walsee」、サイト「Maribor---The city of Stories」https://www.maribor.com/maribor-castle-a-historical-guide-to-its-unique-architecture/9などより)

マリボルの街中にあるマリボル城。現在はマリボル博物館

 

騎士の間と、ロココ式階段


オスマントルコ軍との戦いの様子を再現したジオラマの展示がある



 


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