まずスロヴェニアの五つの歴史的地域を知りましょう!
---強引な解釈ですが国旗、国章が五つの歴史的地域の集合体を示している?


 

スロヴェニアの国旗と国章


 まず、国旗の基本となる白、青、赤の三色旗であるが、スラブ系民族中心の国(ロシア、スロバキア、クロアチア、セルビアの国旗はその上下の順番はそれぞれ異なるがこの縦に重なる三色。チェコも形は違うがこの三色)のシンボルカラーである。スロヴェニアの国旗の基本は、かつてこの国の一部分を支配していたカルニオラ公国の旗であった。この国は最後は神聖ローマ帝国皇帝ハブスブルク家の一族が支配した。19世紀には、現在の首都リュブリャナに議会が設けられ、一定の自治を行った。さらにこの国旗の左上にある国章の白い山も、この旧カルニオラにあるスロヴェニアの最高峰トリグラウ山を示している。

  

カルニオラ公国の旗。トリグラウ山。右地図中の●がトリグラウ山、がリュブリャナ。

現在のリュブリャナ大学本館内には、カルニオラ議会跡が残されている。毎月第一日曜日に大学見学ツアーを実施しているものに参加して撮影。参加者は私だけだった。


 
 次いで、国旗の中にもある国章で目立つのが、三つの黄色の六芒星(ろくぼうせい)であるが、これは現在のシュタイエルスカ地方から興り、15世紀の盛期には現在のスロベニアの国土面積以上に領土を広げたツェリェ伯国の紋章に由来する。ツェリェ伯はスロベニア人ではなく、ドイツ系の貴族であった。1308年に、後の神聖ローマ帝国皇帝の地位を独占したハプスブルク家の家臣となり、勢力を広げたのだったが、1456年、対立したハンガリー貴族により当主が暗殺され男系が途絶えたため、その領土がハプスブルク家に引き継がれ、シュタイエルスカはその直轄地となった。なお、ツェリェ伯やその領土についての詳しい説明は「Wikipedia: Counts of Celje」を参照のこと。


 

ツェリェ伯の六芒星の紋章(ツートンカラーに見えるのは日陰のため)とツェリェ伯ウルリヒ2世(1406-56)。右地図のがツェリェ。

ツェリェ伯の拠点の一つ、ツェリェ城跡とシュタイエルスカの風景(ツェリェ市)。山の上までは、駅からタクシーが5ユーロで行ってくれ、ツェリェ城の入口のすぐ近くで降ろしてくれる(2025年5月の情報)。帰りもタクシーで降りるなら呼び出しの電話番号を降りるときもらうこと。



 さて、国章のトリグラウ山の下側に二本の波線が入るが、これは海と川をそれぞれ表わすという。
 スロベニアは「猫の額」ほどではあるが、風光明媚なアドリア海沿海地方、すなわちプリモルスカ地方を持つ。ここはベネチア領→オーストリア領→イタリア領と変遷し、第二次大戦でユーゴスラヴィアのパルチザンが奪取し、ユーゴスラヴィア連邦構成国のスロベニア共和国の領土となった。スロヴェニアの言い分としては、昔からスロヴェニア人が多数住んでいる地域だという。

 


 ここからが私の全くの独断であるが、国章の川は特定の川を指さないとされているが、ムール川(Mura)とメジャ川(Meža)の二つをまとめて指すと捉えるのである。
 「ムール川の向こう」という意味のプレクムリェ地方は、ハンガリー領だったが、第一次大戦後、スロヴェニアも加わった「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の王国」領となった所である。私には失礼ながらスロヴェニアの国土が右向きの鶏のように見えるが、その場合の鶏冠または頭の部分である。その入口にあたり、かつこの地方の中心地でもあるムルスカソボタ市の周辺は、ハンガリー平原から続くかと思われるなだらかな耕地が広がっていた。4月末は、野菜のものか、油を取るためのものか、黄色い菜の花畑のようなものが多く見られた。

 

(左)「愛の島での川文化遺産」として、何回も川の増水で壊れてはEUの支援で建て直されたムール川に架かる水車小屋。ムール川は見た範囲では大きな川ではなかった。 (右)平坦な耕地が続く。



地図中のがムルスカソボタ


 この地域は、元ハンガリー領らしくカトリック教会があるが、リュブリャナで多くの世界文化遺産に認定されている建築物を設計したプレチニクのユニークな「白い鳩教会」もある。さらに、この地域はハンガリーでも宗教的に寛容な所だったので、ルター派の教会もあるのが特徴だ。

 

カトリック白い鳩教会」


  

ムルスカソボタのルター派教会。入口のルターの肖像のパネルやルターのステンドグラスを掲げている


 最後に、主にメジャ川沿岸地方を含むコロシュカ地方である。ここは、かつて7世紀に定住したスロヴェニア語を話す人々が、今のオーストリアのクラーゲンフルト近郊を中心とする「カランタニア」、ドイツ語で「ケルンテルン」という公国に関わった名残の地域の一部である。これは13~14世紀までにハプスブルク家の神聖ローマ帝国の一部となるが、支配者の公はスロヴェニア農民たちに1414年まで次のような儀式を行った。「農民たちが見まもるなか、・・・カランタニアの中心に置かれた古代ローマ時代の石柱の一部である『公の石』の上で即位した。公は即位後、『石の玉座』に腰かけて、公平な統治者で裁判官あることを約束しなければならなかった。」(『スロヴェニアを知るための60章』明石書店の「中世のスロヴェニア」ペテル・ヴォドピヴェツ著 柴宜弘訳p45~46より)
 この「公の石」はクラーゲンフルト市のケルンテン州庁舎「紋章の間」にあり、また「石の玉座」は、そのクラーゲンフルトに近いマリア・ザール市郊外のS37道路の脇にガラスケースと金属柵に囲まれてあり、Google Mapsで「Duke's Chair」で検索すると場所が分る。
 スロヴェニア人は、これを自分たちの伝統として、誇りをもっていて、2セントコインに「公の石」の図柄を使っている。また、コロシュカ地方ではなく先述のカルニオラ地方であるが、そのコチェーヴィエの郷土博物館でも、スロベニアの伝統として「公の石」のレプリカが展示されていた。

 

「王の石」のあるオーストリアのケルンテルン州庁舎とその「紋章の間」


 

(左)「王の石」            (右)王の玉座

    

(左)スロベニア20セント(0.2ユーロ)コイン         (右)コチェーヴィエの郷土博物館の「公の石」のレプリカの展示


 この伝統を持つ地域は、第一次大戦後、オーストリアから先述の「セルビア人・・・スロヴェニア人の王国」にドラヴォグラード市、メジャ川沿岸のラブネ・ナ・コロシュケムなどいくつかの町や村を含む地域、人造湖のあるJezelskoイェゼルスコなどが譲渡されてできたのである。「など」の部分は、第一次大戦後の詳細な説明でどう言う意味なのかお分かりいただけると思う。

ドラヴォグラード。ここに見られる川はメジャ川でなく、ドラヴァ川。バスセンターは左の橋を渡ったところ。ちょっと苦労して登った山の城跡から撮影したものを合成。

 

メジャ川とラブネ・ナ・コロシュケムの町。地図中のがドラボグラード、がラブネ・ナ・コロシュケム。メジャ川も大きな川ではない。地図中の離れた西側の地がJezelsko.



 以上の事をまとめると、下の地図に示すように、現在の領土のスロヴェニアが、スラブ系民族による「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の王国」(第一次ユーゴスラビア)または、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(第二次ユーゴスラビア)に加わる前は、他の別々の民族国家の支配を受けていたことがわかる。このような状況の中で、「自分たちはスロヴェニア語を話し、書くスロヴェニア人だ。」という民族意識を高め、第一次大戦で戦い、ユーゴスラビア王国の一員となったり、その後新たに広くこの地の支配を行ったナチスドイツやイタリアとも第二次大戦で戦い、第二次ユーゴスラビアに加わるも、そのユーゴスラビア連邦から最終的に独立を勝ち取った。このスロヴェニア民族の独立への歴史をこれから順に見ていこう。






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