ナポレオン様様
---リュブリャナとスロヴェニア語に主役のポストを与えた
18世紀から19世紀初頭にかけて、フランス革命を擁護、拡大することを大義銘文として、ナポレオンは、これを阻止しようとしたオーストリアを1805年アウステルリッツの戦い、1809年ヴァグラムの戦いで破り、領土の一部を奪取した。その新たにフランス領となったところ(ケルンテルンの一部、カルニオラ、現イタリアのトリエステ、イストリア半島東部、クロアチアの一部など)に新しく「イリリア(諸)州」を設置した。その面積550,000平方キロ、人口150万人ほどだった(『スロヴェニアを知るための60章』の石田信一氏「近代スロヴェニア民族の成立」より)。そして、この行政府をリュブリャナに置いた。また、「イリリア語」という名称で、十分体系化されていなかったが当時のスロヴェニア語を、この地の行政機関や学校教育などで使うことにしたのであった。リュブリャナやスロヴェニアは長い歴史の中のほんのひと時ではあったが、オーストリアとドイツ語支配から解放され、いわばこの地の「主役」に一気に躍り出たのだった。1810年には、現在のリュブリャナ大学の起源となった「」エコール・サントラル」も設置された。なお、「イリリア」とは語源は不詳だが、古代ギリシャ・ローマの時代にバルカン半島西部に住んでいた民族の名に由来する。
緑の↓の緑色のところが「イリリア州」(Wikipedia「イリリュア州」より)
その語のナポレオンの失脚で、イリリア州の多くが再びオーストリアのものとなり、次第にオーストリア化が進み、1849年には完全に行政府としては廃止されたが、この間の歴史は、スロヴェニア人に大きな民族的自覚を促すことになった。現在リュブリュナ大学などいくつかの学校が建てられているリュブリャナの文教地区に、スロヴェニア語の文教を促進した功績を讃える意味もあり、金メッキのナポレオン像を付けた碑が建立されている。フランス国外でのナポレオン像は希少とのこと。また、これは高名なプレチニクが設計し、1929年、イリリア州設置120年を記念して当時のユーゴスラヴィア王国がフランス大使を招いて設置した。この碑の下には、ナポレオンに従軍した倒れたフランス兵の遺灰が埋められているとのこと。碑文に「この石の下に私たちは君の遺灰を納めた 名もなき兵士よ ナポレオン軍の一員として戦いへと向かい皇帝の栄光のために倒れた君よ しかし君の死は私たちのじゆうのためであった ここで君が安らかに眠れるように」とある。また、碑の最上部の金の三日月と三ツ星は、当時のスロヴェニアの国章だとのことで、ユーゴスラヴィア王国の紋章に取り入れられている(Wikipedia「Monument des Provinces illyriennes」より)。フランスは、金色の、英雄に送られた椰子の葉をこの碑にささげた。この碑を建てているところは「フランス革命広場」と名づけられているが、「広場」と言われるだけのスペースは無い。
碑文は「ナポレオンがイリリアの領土を分割し、その精神はスロベニアに息吹く。ナポレオンの時代。」「一つの剣が新たなる時代を導く」
中はユーゴスラヴィア王国の国章。スロヴェニアのシンボルとして青地に三ツ星と三日月がある。三ツ星はツェリェ家の紋章、三日月はカルニオラ公国の国章(右)から。
ここが、フランス大使が金の椰子の葉を献呈したものを付けた西側の側面。
「この石の下に私たちは君の遺灰を納めた 名もなき兵士よ ナポレオン軍の一員として戦いへと向かい皇帝の栄光のために倒れた君よ しかし君の死は私たちの自由のためでもあった ここで君が私たちの中に安らかに眠れるように」との碑文
ナポレオンの顔の反対側の面には、イリリアの象徴的女性の顔があり、
「ギリシャのコリントの近くには、ヨーロッパの心臓部であるイリリアが位置しています。 コリントは『ヘレニズムの眼』と呼ばれ、ヨーロッパの心臓部となるイリリアの要衝地である。」(直訳)と刻まれている
東側の側面。「私たちはあなたがどこで生まれたのか知りません どこで風によって吹き飛ばされたのか知りません 私たちと共にあなたは倒れました、私たちのために倒れました 私たちを暗闇から救い出したのです。」と刻まれている。