ラトビアのシンボルカラー、シンボルイメージ
ラトビアのシンボルカラーは、国旗の、白とラトビアン・レッドとも言われている赤茶色(RGB 158, 48, 57① )、またはカーマイン・レッドと言われるものでしょう。また、シンボルイメージとしては、国章の他に、太陽、太陽神など自然を表すという、女性のベルトであるLielvārdes jostaリエルワールデ帯や、手袋であるmittensミトンというものなどに織り込まれる幾何学的な様々な模様があるでしょう。2023年の「踊りの祭典」で最後に皆がマスゲームのようにして作った形が、その1つでした(私の「踊りの祭典鑑賞記」のページm-mikioworld.info/latglast.html参照)。
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左は街中で掲げられていたもの。中はリガ駅前のもの。右は「踊りの祭典」で作った、太陽を表すという元の模様。
ラトヴィア大統領府のサイトでは「ラトヴィア共和国の国旗は、カーマインレッド地に白の横縞が入ったデザインとなっております。 ラトヴィア共和国の国旗の色の比率は2:1:2となっております。 国旗の高さと幅の比率は1:2と定められております。 ラトビアの国旗は長い歴史を持ち、13世紀の『※Rhymed Chronicle of Livonian』(※これは13世紀末に成立したドイツ語原典『Livländische Reimchronik』を指す。日本語では『リヴォニア韻文年代記』 私注) の章節に初めて言及されております。 この歴史的記録を踏まえ、19世紀には愛国的な個人や団体がこの旗を使用しました。1917年には、ラトヴィアの地域統合を目指す複数の行事で赤・白・赤の旗が用いられました。こうした政治的動向を受けて、ラトヴィア国旗のデザイン問題が提起されました。議論の結果、芸術家Ansis Cīrulis アンシス・チルリス氏が作成したデザイン案が最も支持を集めました。 1921年6月15日、憲法制定議会は『ラトヴィア共和国国旗及び国章に関する法律』を採択しました。 国旗の特異なカーマインレッド色は、1922年に政府文書で初めて明記されました。これは、類似した色のオーストリア国旗との識別を容易にするためでした。②」とされています。
このカーマインレッド色は、倒れたラトビア人兵士の血の色で、兵士の身体に被せた白い布の両脇が血で染まったもの、といろいろなサイトで書かれていますが、これは歴史的な厳密さから言うと断定できないようです。日本語で『リヴォニア韻文年代記』とされる、大統領府が触れている書は、13世紀末に成立したもので、Leo Meyerレオ・マイヤーが1876年に、13世紀当時の文語である中世高地ドイツ語原文を編纂・出版した学術版『Livländische Reimchronik』で見られます。関連する箇所を示すと、
Dô begunden si ze klagen, daz ir lant was gar zerschlagen von den brüdern und ir gesellen. si wolten sich daz vergelten stellen. dô zôch der kuning von Semgallen mit siner schar gen Rîge allen. Er hât vil man daz hin gesant, die hât er wol dar zu erkant. Dô hôrten si diu maere, daz der brüder komen waere von Tsees mit manlicher schar, wol hundert man oder gar mit den Letten, die er vant. Dô si daz vernomen hât, dô komen si mit einer banier, daz was rôt mit einem wîzen strîche in der mitte.➂
AIのCopilotによるこれの逐語的・構造的日本語訳は
「そのとき彼らは不満を述べ始めた。 自分たちの土地が完全に荒らされたことを、 騎士団の兄弟たちとその仲間によって。 彼らはその報いを与えようとした。 それでゼムガレの王は、 自らの軍勢を率いてリガへ向かった。 彼は多くの兵をそこへ送った。 彼はその目的にふさわしい者たちを選んだ。 その知らせを彼らは聞いた。 それは、ツェーシスから騎士団員が 武装した一団を率いて来たというもので、 およそ百人の兵であった。 彼が見つけたラトビア人たちとともに。 それを聞いた者たちは、旗を持ってやって来た。 その旗は赤く、中央に白い帯があった。」
これは、現在のラトビア人の祖先の一部族とされるゼムガレ人が、ドイツ人の騎士団のいるリガを攻撃しようとした際の記述です。ここに赤白赤の旗が現れますが、まず、「旗を持ってやって来た」という主語の「それを聞いた者たち」とは誰なのかが曖昧です。騎士団に率いられて来たラトヴィア人ともとれるし、この騎士団とラトヴィア人がやって来たことをさらに「聞いた者たち」だともとれます。ラトヴィア国営の公共放送ネットワークの公式ニュースポータルのサイトによると、
「ラトビアの旗が初めて言及されたのは『リヴォニア韻文年代記』であり、 13世紀末にツェーシスからリガへ向かった兵士の一団が、中央に白い帯のある赤い旗を掲げていた。 ④」と解釈しています。しかし、この解釈だと、当時のゼムガレ人と戦うために、別のラトビア人たちがこの旗が持って来たことになり、日本人の視点から見ると、全ラトビアの国旗とするにはゼムガレ地方から不満が出るように思います。逆に、ゼムガレ人たちが持って来たと解釈しても、結局はラトビア人の先祖同士が戦う中で現れた旗となるので、ラトビアの旗とするとき、どこかからの反対がなかったのでしょうか。
しかし、公共放送の同サイトでは続けて「この年代記に基づいて、最初の旗も作られた。例えば、1916年に刺繍されたラトビアの旗である。この旗のアイデアは、教師のヤニス・ラピンスが考案したものである。この旗には、射兵の徽章を彷彿とさせる太陽が追加されている。赤・白・赤の旗は、射撃兵たちや、ラトガレの会議、1917年のデモなどで使われて、どんどん人気が高まっていった。当時、赤の色はそれぞれ色合いが異なり、縞の比率もさまざまで、さらに、旗には思いつくままに何かが追加されていた。『1917年には、旗には太陽だけでなく、心臓、剣、さまざまな文字も描かれていました。しかし、旗はさまざまなシンボルを付けずにシンプルであるべきだという意見が優勢でした。』と、ツェーシス歴史芸術博物館の歴史家、ターリス・ヴィゴ・プンプリニシュ氏は語っている。ラトビアの旗はどのようなものであるべきかは、1921年に初めて法律で規定された。『当時、担当者はマルゲルス・スクイェニエクス氏で、彼は旗について、それはすでに記録に残っており、独立戦争の間に広く使用されていたため、まったく議論の余地はなかったと述べていました』と、タリス・ヴィゴ・プンプリニシュ氏は説明した。⑤」として前記大統領府の説明する、国旗制定の史実に続くわけです。ゼムガレ地方などから批判や抗議があがったことは無かった様です。
しかし、旗のカーマイン・レッドの色が倒れた兵士の血の色だということは、『リヴォニア韻文年代記』の記述にはなく、この国旗制定の流れの中で、一つの「伝説」として語られ、今は多くのところで支持されているようです。
今度、ラトヴィアに行ったときに、行ける範囲で、国旗の意味、起源について、公的な機関に訊いてみたいと考えています。
リガの街中をよく見ると、この二つの色の組合せが様々な形で使われていました。
旧市街の中は、カーマインレッドと白の三角形を連ねた、英語でPennant Garlandペナントガーランドと呼ばれるものがあちこちに張られていました。また、窓の上の庇にもこの色のものが多く見られました。

左の建物の壁もカーマイン・レッドです。
私が「ラトヴィアのシンボルマークの一つ」と言ったものや、それに近いをデザインを使ったものは、衣類以外にも見られました。ダウガバ川の遊覧船の外壁のデザインや、リガ空港免税店で売っていたマグカップのデザインなどです。1回だけ、街中を走っている市電の外壁がこの船のようになっているものに出くわし、感動して撮ろうとしたところ、カメラを取り出すのにもたもたして、残念ながらシャッターチャンスを逃してしまいました。リガ滞在の終わりのころでしたので、二度とお目にかかれませんでした。


もう一つ、民衆の間で「ミルダ」と呼ばれ、親しまれている乙女像があります。これも、ラトヴィアのシンボルの一つでしょう。ただし、公的には「ミルダ」の名は付けられていません。
現在、ラトビアの1ユーロ、2ユーロ硬貨のデザインとして刻まれている乙女がそれの一つです。

上が2ユーロ、下が1ユーロ硬貨
このデザインは、1929年、当時の独立国ラトヴィアの5★ラッツ(★当時の通貨単位 私注)銀貨に初めて使われたものです。「・・・新しいラッツ紙幣と硬貨のデザインの作者の一人は、グラフィックアーティストのRihards Zariņšリハルズ・ザリニシュ(1869–1939)であった。・・・硬貨の裏面には、ザリニシュはラトヴィアの民族衣装をまとった乙女の像を選び、これは国民の勤労の美徳と倫理的な清らかさの象徴である。何世紀にもわたって民間伝承の中で磨かれてきたこの像は、すべてのラトヴィア人にとって理解しやすく、親しみのあるものであった。芸術家は、この乙女像のモデルとして国家印刷所の校正者Zelma Brauereゼルマ・ブラウレ(1900–1977)を選んだ。彼女の若さ、美しさ、心の清らかさは多くの人々を魅了し、ザリニシュ自身も彼女を何度も肖像画に描いた。・・・5ラッツ銀貨におけるこの像の抽象化はより高く、より完全であり、・・・乙女の右肩には軽く穂が垂れ、背中には太い三つ編みの髪が流れ、襟と冠にはラトヴィア民族衣装に特徴的な幾何学模様が飾られている。・・・その心地よい芸術的造形と価値のために、5ラッツ銀貨は非常に人気となった。その主像は追加的な象徴的意味を獲得した――それは、・・・リガの自由の記念碑の尖塔に立つ自由の像に類似するものである。・・・第二次世界大戦中、ラトヴィアでは占領者が次々と交代し、国家の独立と通貨も失われた。この銀貨はラトヴィアの自由と国家性の象徴となり、占領下のラトヴィア、シベリアへの追放、そして世界中の亡命先で希望の光として保管された。⑥」
そして、「コインに描かれた乙女の肖像は、口語で『ミルダ』として知られている。⑦」とラトヴィア語版Wikipediaに書かれています。
上の文で指摘されているように、リガに1935年に建設された独立のシンボル「Brīvības tēls(自由の像)」も「ミルダ」と一般に呼ばれています。なお、この像と、これが建てられた背景については、ラトヴィアの歴史のページで詳しく説明してみたいと思っています。

<出典>
①サイト「ラトビア国旗の色・カラーコード一覧」 https://flagcolor.jp/latvia/ より。ただし、公的な規定は無いようです。
②「Latvijas Valsts prezidenta kanceleja」の「The flag of Latvia」の英語版 https://www.president.lv/en/national-symbols?utm_source=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2Fの翻訳 より。
➂Leo Meyer 編『Livländische Reimchronik』(1876年)
④⑤LSM.lv (ラトヴィア国営の公共放送ネットワーク)の歴史記事サイト「Valsts simboli: Karogs – pirmo reizi minēts 13. gadsimtā」
https://www.lsm.lv/raksts/dzive--stils/vesture/valsts-simboli-karogs--pirmo-reizi-minets-13gadsimta.a300119/ の日本語訳より
⑥ラトビア銀行発行の公式ブックレット(PDF)「Sudraba 5 lati」
https://www.bank.lv/images/stories/pielikumi/publikacijas/monetu-bukleti/Sudraba-5lati_sm.pdf の日本語訳より
⑦Vikipēdija「5 latu monēta」の日本語訳より