ブランコが上にある国境
2025年7月上旬、ラトビアのValkaヴァルカ、エストニアのValgaヴァルガに行きました。名前がよく似ていますが、この二つの町は、実は第一次世界大戦までは一つの町だったのです。その大戦前は、両国ともロシアの支配下にあり、独立していませんでした。この町にラトヴィア人やエストニア人が住んでいましたが、ロシアの町だったわけです。大戦中に一足早く独立したエストニアが、ラトヴィアが独立するための戦争をしているとき、助けるため、大戦後、武装鉄道車両を現ラトヴィア国内の領域に派遣するなどしました。その支援のおかげもあり、ラトビアもこの町も独立することになったのですが、イギリス人を責任者とする国際仲裁裁判所の裁定で、駅のある比較的栄えていた方をエストニアが取り、ヴァルガとし、ラトヴィアは農業地域の多かった方を割り当てられ、ヴァルカとしました。「悲劇」とまでは言えませんが、かつての東西ベルリンのように一つの町が分断され、国境には鉄条網が張られたとのことです。ヴァルカの歴史博物館の館長さんは、「ラトヴィアの方は協議に参加した代表団の押しが弱かった。」という資料①を提供してくれました。また、私とメールでやり取りしている中で、「革命ロシアと対抗させるためには、勢いの強かったエストニアに駅などを掌握させるのが得策と考えた。」というような見解を示しました。2025年時点で、ヴァルカに駅はありません。
私はヴァルガ駅から近いホテルに泊り、歩いて30分弱の、現在はヴァルガにあるかつてラトヴィアが独立する上で重要な会議を行った、タウンホールを見学させてもらうことになっていたのです。初めヴァルカの博物館の館長さん(お会いしたらけっこう若い男性でした)と連絡を取り、それから彼の知り合いだというヴァルガの博物館の責任者のお一人のKuutmaクートゥマさん(年配の男性)を紹介していただきました。クートゥマさんは、わざわざ付き添って市民ホールをご案内してくださったばかりか、ユニークな両国国境も紹介してくださいました。このお二人には大変感謝しています。なお、タウンホールについては、ラトヴィアの歴史のページで紹介したいと思います。
さて、国境ですが、ラトヴィア、エストニア両国ともシェンゲン協定を結んでいるため、かつての鉄条網も撤去され、2025年時点では、全く自由に国境を往来できました。国境の警備員などのスタッフも常駐していないようでした。四方を海に囲まれている日本に暮らす私にとって、地上の国境はとても興味深いものです。
まず、ヴァルガに到着した日に、ヴァルガ側から行って見て何回も渡った国境の一つ。
うまく国境上を示せませんが、この赤い目印の前の南西に延びる道路と国境が交わるところ

これらはすべてエストニア側のヴァルガからのもの。ここでは小川が国境になっています。左の写真から右の写真へと続くものです。ヴァルガに赤い斜め線があるのは、「ここはもうヴァルガではない」という意味。道路に立つ建物はかつてのラトヴィアの検問所。

ヴァルカに赤い斜め線が掛けられているのは「もうここはヴァルカではない=ヴァルガである」という意味。ヴァルカ側からこの国境を見たところ。
翌日、ヴァルガのタウンホールを見学した後、案内してくれたクートゥマ氏は、別の国境の場に案内してくれました。そして、その近くの国境の上には、なんとブランコが設置されていました。クートゥマ氏曰く、「コロナのとき、国境を自由に行き来できなくなったので、せめてこれに乗って国境を越える気分になろう、と設置された。」とのことです。童心に戻って、二人でブランコに乗りました。

この国境表示の後方の赤い横線のところにブランコがあります。市の紋章のデザインもよく似ています。

①サイト「Vai Valkas dalīšanā vainīgs tikai “vīrs ar pīpes kātu” S.Dž.Talents?」
http://muzejs.valka.lv/lv/aktualitates-7/vai-valkas-dalisana-vainigs-tikai-virs-ar-pipes-katu-sdztalents