Taraの丘へ
アイルランドの史跡を深堀りする気は無かったが、せっかく行くからにはいくつかの有名なところには行ってみたかった。それで選んだ一つが「Hill of Tara」(タラの丘)であった。ここは142人のアイルランドの最高王(上王)が即位した場所であり(現地で販売していた小冊子「The Tara Walk」より。以下記述がこれによる場合「小冊子」とする)、またアイルランドにカトリックを伝えようとした聖パトリック(パトリキウス)が、その布教の許可を得るため、433年、レアリー上王(High King Laoghaire)と対面した場所である。「Tara」と言う名は、古いケルトの言葉の「神聖な地」または「偉大な眺めの地」から来ているとのことである(「小冊子」)。タラの丘へは、ダブリンのブサラス・バスステーションから1時間に1本も出ているバスに乗って、約50分で着く「Tara Cross」という停留所で降り、少しバス道路をダブリンの方へ歩いて戻ると右手に「Taraの丘へ」という標識があり、そこからバス通りとは垂直にずっと30分近く歩いていくのが、一番分りやすい行き方だと思う。緑の木々や放牧地が目を楽しませてくれ、タラの丘近くには多くの乗用車が停まっているので場所は分りやすい。ただし、私のように、着けて喜んでしまい、来た方角をちゃんと覚えていないと帰りは逆の方向に行って迷子になるので要注意! 丘への入場料は無料であった。
タラの丘への道は緑に溢れている。ただし、時折自動車も通るので要注意。
入口から入ってすぐのところに、2000年に立てられたという聖パトリックの像があった。彼がレアリー上王と会った場所に立てられているという(「小冊子」)。
現地の案内パネルより。左に見える教会がガイドセンターになっている。トイレはここでは使えず、この丘全体を出たところのカフェのトイレがフリーなのでそれを使う。
1822年に建てられ、今は世俗化したという旧教会では、ビデオによるタラの丘の説明がなされていた。聖パトリックの日だけは「教会」となり、宗教儀式を行うとのこと。
ビデオガイドを見た後、私は丘へ行くつもりで進んだのだが、気が付いたら教会の墓場に入り込んでいた。ただ、おかげで、初めて本物の、十字架に太陽信仰の名残だという日輪を付けた「アイルランド十字架」を見ることができた。聖パトリックはじめ、アイルランドのカトリック布教者たちは、このようなアイルランド固有信仰との混交に寛容だったため、1人の殉教者も出さず、キリスト教が広まったとのこと。古い墓は、17世紀のものだという(「小冊子」)。
現地の案内パネルより。右に切れているのが「教会」。真ん中の二つの大きなサークルは盛り土と空堀からなっているが、上は上王の即位を行った王座の場所で、下は「コーマックの居城」と言われる、王たちの居城のあったところ。それらの右にある円墳のようなものはMound of the Hostages(捕虜の塚)。
タラの丘で一番神聖な場所が、上の写真の二つの円形砦の上の方。何か白く見えるものが立っているのがわかると思う。Forradh(フォラッド。The king Seat。「王の座」)と呼ばれる。いくつもの砦または墓が積み重なった場所である。かつて「捕虜の塚」のすぐ北にあった、「The Lia Fail」(リア・ファイル。「運命の石」)という、聖なる立石が置かれている。1798年にこの地で反乱を起こしてイギリス軍に殺された400名の墓にもなったForradhの上に移設され、今日に至っているという(「小冊子」)。
多くの人が立っているところが、「Forradh」。
「The Lia Fail」。かつて即位した上王がこの石に手をかけて、それが正当な選出だった場合はこの石が「咆えた」という。神聖なもののはずだが足を踏み入れている人もいた。人物抜きで撮影したかったが、これらの人がなかなかどかず、また、次から次へと観光の人々がここに押し寄せて来るので、その撮影は諦めた。
1798年の反乱で殺された人々の墓石。1938年に立てられた(「小冊子」)。私がタラの丘を訪ねた日は曇りがちでときおり雨がパラつく天気だったが、回りの美しい風景がそれなりに見られた。かつて「この丘からアイルランドの半分が見渡せた」、と言われたのもあながち誇張ではないのでは、と思った。
タラの丘から見たアイルランドの地方の景色の一端
なお、タラの丘にポツンと一つアイルランド十字が立てられているが、多くのサイトや私が参照した「小冊子」にはそのいわれが説明されていない。数少ないネットの説明によると、これも1798年の蜂起について記念して、1948年に立てられたものだという。(https://meathhistoryhub.ie/tara/や
https://military--history-fandom-com.translate.goog/wiki/Battle_of_Tara_Hill?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=scによる)
タラの丘の中心にあるもう一つのサークルは「Cormac's House(コーマックの居城)」とよばれるものである。「小冊子」によると、Cormac Mac Airt(コーマック・マック・アート)は伝説や史書が入り混じってその人物像が描かれている上王で、紀元後220年から260年の40年間統治をし、初めてアイルランドに水力製粉機を導入するなど、「黄金時代」と言われるほどアイルランドが栄えた時代だったという(もちろんその実在、統治年代、業績については異論がある)。そして、現在「Cormac's House」と呼ばれているところに、植物で葺いた屋敷を建てて住んだという。
不届きにも何人かが寝転がっているところが「Cormac's House」
「Mound of the Hostage(捕虜の墓。人質の墓)」という羨道のある円墳には数百体の遺体が埋葬されているとのことである。墓の名の由来は、中世のアイルランドで上王には各部族から忠誠の証として「人質」が出され、それらの人々は王族の一員として丁重に扱われ、特別に葬送されたという考えから来ているようだ。しかし、考古学的にはこの墳墓は紀元前3350年とも、2500年ともいう新石器時代に遡るという。よって、どのような人々が何のためにここに特に埋葬されたかについては確定的なことが分らないようだ。ただ、どの資料にも、この墓の羨道が2月と11月の初めに朝日に照らされるよう設計されていて、そのへんの宗教的な考えからも考察される必要がある、と言われている。
羨道の左側に幾何学的な模様が刻まれている
まったく余計なことだが、ここで帰り道でのある出来事を書きたい。タラの丘を散策した後、トイレも兼ねたカフェを見たら満席で、席待ちの人が多いのでここでの飲食は諦めて、すぐにダブリンに帰ろうと決めた。そして、私の頭の中で「こちらがここまでバス停から歩いて来た道だ」と思っていた道を進んだが、途中で私の「迷子癖」を思い出し、一回またタラの丘に戻り、警備にあたっている何人かのグループの男性たちに「この道を行けばバス路線に出られますよね?」と訊いて確認してまでその道を行った。30分近く歩いたが、来た時には通らなかった、砂利を敷き詰めた道になり、「どうもこれは違うぞ。また迷ったか」と愕然としてしまった。あたりは来た時に通った道から見たものと同じような、緑なす牧草地の広がる田園風景で、これと言った目印が見当たらなかった。とにかく少し歩いて誰かに訊くしかないと思っていたところ、かなりの前方だったが、自動車が横切ったのを見たのを希望にその道まで歩いて行った。このとき、本当に奇跡のようなことだったが、一台の自動車が停まっていたのでバス通りへの道を訪ねた。その車は、ややお年を召された女性が運転しており、彼女は「あっちだ。」と指を指して教えてくださった。そして私がその方向にふらふらと歩いて行ったのを見て、哀れと思われたのか、後ろから私に声をかけてきて「この車に乗りなさい。すぐそこだからバス停まで乗せてってあげる。」と言ってくださったのであった。まさに女神に助けられた心地がした。私はただ「Thank you! Thank you!」というのみであった。5分も乗せていただいただろうか、大きな通りに出たところで私はおろしていただき、「車が多く通って危ないから、気を付けて渡って向こうの側のバス停に行きなさい。ダブリンに行くバスが来るから。」と説明を受けたのだった。そのバス停は来た時に降りた「Tara Cross」の道路を挟んで反対側のダブリン方面行きのものだった。こうして無事ダブリンへの2階建てバスに乗れた。私は2階建てバスに乗るのが初めてで嬉しかったので、すぐ2階の席に駆け上がり、窓越しに途中の風景を撮影する余裕をもって帰ることができたのだった。後で落ち着いてGoogle Mapsで見ると、私は何と来た時とは全く反対の方向へ歩いて行ったのだった。タラの警備員たちが「この道をまっすぐいけばバス通りに出る。」と言ったのも嘘ではなく、別の路線のバスが通る道へ出られる、ということだったのである。私が「Tara Crossバス停」という名前を覚えていて出せば、きちんと教えてくれただろう。勝手に自分で「この道だ」と思い込み、一般的に「バス停」と訊いたのが迷子失敗の根本原因だった。しかし、このように親切な「女神」に出会うなど運がよく、また改めてアイルランドの人の親切さをしみじみと感じた旅の一コマであった。