フランス支配からの出口を求めての東遊運動とその挫折



 フランスによる反フランス運動弾圧のためのホアロー監獄建設
 1896年、フランスは、相次ぐフランス植民地政策への反対運動を弾圧するため、ハノイにホアロー監獄を建設し、ベトナムの愛国者たちを政治囚として次々と過酷な状況で収監した。この一部の建物が植民地支配の様子の一端をしめすものとして、現在も残されている。総面積は12,908㎡。監房は頑丈な煉瓦の壁とし、また、周囲に4mの高さと0.5mの厚さの石の壁を築いて、「アリも通り抜けられない」と自慢していた。多くの「囚人」は首枷、足枷を嵌められて集団で捕らわれていたが、拷問などでよく殴られ、またトイレは写真の様で悪臭を放ち、床に糞尿がもれていたこともたびたびだったという。1人あたりのスペースとしては、1㎡のセメントのベッドに2人ずつ寝かせることになっていて、これだと500人の収容だが、800人を収容することもあったという。また、死刑判決を受けた者は独房に移された。判決を受けてから2、3日でギロチンで執行された者もいた。「囚人」たちの食事は、古い臭い米や野菜で、腐っているな魚、水牛の肉なども与えられた。劣悪な環境のため、脚気や赤痢、マラリアなどの病気が流行り、1920年6月~21年6月の1年間に、「囚人」800~900人のうち、87人が死亡した。
 このような環境の中で、共産党の組織が作られていった。そして、檻を破って脱獄したり、下水道から脱獄したりした。(以上は現地で売っていた『Hoa Lo Prizon』という小冊子から) 大きな身体のフランス人は下水道からの脱獄方法を全く想定していなかった、と案内のガイドは話してくれた。

 

現在のホアロー監獄と右はかつての全体図(黄色で囲ったところが主に残っているところ

 

    

金属製の箸やフォークは武器となるので持ち込ませず、植物から各自に作らせた

  

トイレ

 

独房と脱獄に使った下水道


 これはコンロン島の監獄のギロチン。ホーチミンの戦証博物館の展示より。コンロン島の女性政治囚については
→ m-mikioworld.info/freewomen.html


 潘偑珠(ファン・ボイ・チャウ)の東遊運動
 
(左)ファン・ボイ・チャウ (パブリックドメイン)+
  (右)運動に参加した人々 1908年頃撮影(撮影者不詳)。著作権保護期間は満了していると考えられるが、出典として一般公開されている資料を参照した。
1908年頃撮影(撮影者不詳)。  著作権保護期間は満了していると考えられるが、出典として一般公開されている史料を参照した。
 
 ファン・ボイ・チャウは、貧しい儒学者の家に生まれ、父の教育の下で幼くして儒学を身に付けた。また、フランスのベトナム支配に批判的な立場をもっていった。日露戦争の「旅順・遼東の砲声」に同じアジア人として「一新世界を開かしめた」と感激し、日本に学ぶべし、ベトナム独立への援助を求むべし、新社会建設の力を持った青年を育てむべし、と日本への留学をベトナム青年によびかけ、1907年から100人ほどを送り出し、大隈重信、犬養毅らの支援も得た。また、慶應義塾にヒントを得て、「東京(ドンキン)義塾」をハノイに創立し、寄付を募ったため、学費は無料で文房具まで支給し、ベトナムでも青年の教育を行った。ハノイの旧称ドンキンと日本の東京をもじって命名。クォックグーや近代科学などを学ばせた。500名以上が学んだ。
 しかし、総督府から1908年、閉鎖を命じられ、日本にいた留学生も、1909年、フランス・日本友好条約に基づき、全員の日本国外退去が命じられ、帰国後の逮捕を恐れた学生たちは中国やタイなどに逃げた。こうして「東遊運動」は終わらされた。ファン・ボイ・チャウは武力闘争を決意して、武器購入の資金集めに奔走。1913年、中国にいたファンに欠席裁判で死刑判決が下り、袁世凱政権によって広東で2年間収監されていたが、1917年袁が亡くなると自由の身となった。この後、ホー・チ・ミンと知り合い、「世界被抑圧低開発人民連合・ベトナム支部」発足に関わったが、片腕と目された人物に裏切られ、逮捕され終身懲役刑の判決を受けた。しかし、国内外で判決への批判が強まったため、新たなインドシナ総督は恩赦を与えて、釈放した後、フエに移し、1940年の最期まで事実上の軟禁をした。

  

 

エのファン・ボイ・チャウ記念館には、ここで死ぬまで軟禁されていた彼の家(再建)と墓、両親の墓がある。

ファンたちの志を知り、現在のお金で数千万円を寄付し、支援した、袋井市の医師、浅羽佐喜太郎(あさばさきたろう1867~1910)の友好を讃える碑も設置されていた


  

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