アメリカによるベトナムへの本格的参戦⑴
「トンキン湾事件」と「北爆」の開始
トンキン湾は、ベトナム北部と中国のレイチョウ半島、海南島に囲まれた海である。1964年8月上旬に、ベトナム民主共和国軍が、この湾の公海上にいたアメリカの軍艦に1日ずつ、それぞれいきなり攻撃をしたというのが「第1次トンキン湾事件」、「第2次トンキン湾事件」である。これに対して、アメリカのジョンソン大統領は、これを理由に「トンキン決議」を議会で承認され、ベトナムに本格的に参戦する白紙委任を得た。そして1965年2月からB52戦略爆撃機などでベトナム民主共和国を空爆する、一般に「北爆(ほくばく)」と呼ばれる激しい攻撃に踏み切った。北爆を強く主張したアメリカ空軍のルメイ将軍(東京大空襲を指揮)が、“ベトナムを石器時代に戻すほどの爆撃をすべきだ”と語ったとされる言葉が広く知られている。実際にそのままの表現を使ったかどうかは議論があるが、彼の強硬な空爆論を象徴する言葉として定着している。アメリカ国防総省の公的記録によれば、ベトナム戦争全体で米軍が投下した爆弾は 7,662,000トン に達し、第二次世界大戦全戦域の3倍以上であった。1965〜1975年の爆撃・攻撃ミッションは 280万回以上 にのぼった。特に1972年12月のラインバッカー II 作戦では、本格的にB52が投入され、20,000トン以上の爆弾が投下され、 米側推計で 1,624人の民間人が死亡したとされる。ベトナム民主共和国側の被害は、戦時中の情報統制のため正確な数字は残っていないが、 国際機関・米政府・研究者の推計を総合すると、 民間人の死者は約6〜18万人、軍人の死者は約11〜15万人、 橋や工場などのインフラは数千単位で破壊された と考えられている。 特に1972年の「ラインバッカー II」では、 12日間で1,600〜2,300人の民間人が死亡 したと推計されている。以上の資料は現在ベトナム戦争について記述した文献、論文に一般に書かれている内容である。忘れてはならないことは、当時アメリカの施政権下にあった沖縄の基地からも、アメリカ軍機が爆撃のため何回も出撃したということである。なお、B52と、特にその1972年12月の集中爆撃については私のサイト→「実際に見て大きかったB52」m-mikioworld.info/bomber52.html
もご覧ください。

右はジョンソン大統領

B52による爆弾投下(パブリックドメイン)
アメリカが本格的参戦に踏み切ったのには背景があった。「1964年3月のアメリカの判断では、南ベトナムの農村の40%は解放戦線の支配下に入っていた。」(『歴史としてのベトナム戦争』p25 古田元夫 大月書店 より) この情勢下で、先述したように南ベトナムではクーデターが相次ぎ、彼らの政権では解放戦線と十分戦えないと判断したのである。そして何かをきっかけとして、国内外世論に支持される理由で直接参戦することを模索した。そのときに起きたのが2つの「トンキン湾事件」だった。ところで、なぜアメリカがここまでベトナム民主共和国と南ベトナム解放戦線に対抗したのかと言うと、当時有名だった「ドミノ理論」があった。もし、ベトナム全土が共産党が権力を握る国家になってしまえば、ドミノのように、カンボジア、ラオス、タイ、さらにはフィリピン、インドネシアまで「共産国化」してしまう。それは冷戦で対決しているソ連陣営を有利にする、というものだった。だからベトナムの共産化は何が何でも阻止しなければならない、というものである。これが誤っていたかどうかは現状の東南アジアをみて考える必要がある。現在、この時期のアメリカの公文書が公開されており、それを1次資料としてこの事件の真実をアメリカ人自身が探究した論文がいくつもある。その多くが述べていることは、第一次トンキン湾事件はあり戦闘が行われたが、ベトナム側が大きな打撃を受けたのに対し、アメリカ側はほとんど被害を受けなかったこと、そして、「第二次トンキン湾事件」については、「事件そのものが無かった」ということである。
これからその中の一つ、John Prados(ジョン・プラドス)のエッセー“40th Anniversary of the Gulf of Tonkin Incident”(日本語訳にすると「トンキン湾事件40周年」)(2004)に書かれていることを紹介しよう。プラドスはアメリカの外交・軍事政策を研究する歴史家で、機密解除文書を用いた分析で知られている。トンキン湾事件40周年という“節目”に合わせて、アメリカ政府自身が公開した一次資料に基づく再検証を行ったものであり、政府の機密解除文書を収集・公開する、世界的に権威ある研究機関、National Security Archive(NSA 国家安全保障アーカイブ) が公開した、トンキン湾事件40周年特集の中心文書である。論文は→https://nsarchive2.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB132/essay.htm のサイトで読める。なお、下の引用文は私が訳したものなので、誤訳があるかもしれないことをお断りしておきます。また、詳しくなるので、必要無い方は飛ばして下さい。
結論から言うと、プラドスは、第一次トンキン湾事件は存在するが、第二次トンキン湾事件(8月4日)については、攻撃があったと断定できる証拠は存在しない。しかし、当時のアメリカ政府は不確実な情報を基に「攻撃があった」と議会に説明し、武力行使の承認(トンキン湾決議)を得た。その結果、アメリカはベトナム戦争を全面拡大した、としている。「第一次トンキン湾事件」については、彼は「1964年8月2日、北ベトナム沿岸目標に対する一連の※34-A海上襲撃の直後に発生した」のが「アメリカ駆逐艦マドックスと北ベトナム魚雷艇数隻との海戦」、すなわち「第一次トンキン湾事件」である、としている。さらに「戦闘発生時、米駆逐艦は公海上にいたが、北ベトナム側は※34-A作戦と駆逐艦の出現に関連性があると論理的に結びつけた。実際、マドックスの任務は、34-A作戦後に急増すると予想される北ベトナムのレーダーやその他の電子信号を記録することにあった。」この事件に関係があるとする※の34-A作戦(海上襲撃)については「米国が単独で統制し、米海軍が調達・維持する艇を使用し、CIAが選定した目標を攻撃する、米国が資金を負担する作戦であった。この作戦における南ベトナム側は、投入されたコマンド部隊」であったという。すなわち、いわゆる北ベトナムの沿岸のレーダー施設などを破壊する作戦であり、北側はその後公海上に現れた米駆逐艦もこの作戦の担い手と誤認して攻撃したというのである。この事件について、公開されているアメリカ海軍 USS Maddox の戦闘報告書(2026年1月4日確認)によれば、1964年8月2日のトンキン湾での交戦は、駆逐艦マドックスとベトナム民主共和国の高速魚雷艇3隻との間で行われた。報告書には、マドックスが受けた損害はごく軽微であり、逆に3隻の高速魚雷艇には魚雷・砲撃・銃撃によって損害を与えたことが記されている。一方で、一般に引用される「北ベトナム側の4名死亡・6名負傷」という数字は、この戦闘報告書には記載されていない。海戦中に敵側の死傷者数を正確に把握することは不可能であり、北ベトナム側も当時損害を公表していなかったためである。したがって、この数字は戦後の研究者による推定値と考えられる。さて、問題は8月4日に起きたという「第二次トンキン湾事件」である。プラドスは、この事件の概要を「8月2日の最初の海戦の後、ジョンソン大統領は、2隻目の米駆逐艦C・ターナー・ジョイにマドックスへの合流を命じ、その後、両艦はトンキン湾を北上した。8月4日の夜、両艦は再び攻撃を受けたと判断し、敵との接触、水中への魚雷発射などを報告するメッセージを送ると同時に、想定される敵に対して大量の砲撃を行った。この「無害通航」に対する繰り返しの挑戦とみなされた事件を受けて、ジョンソン大統領は北ベトナムに対する報復爆撃を命じ、ベトナム戦争を遂行するための議会決議を要請した。」、とまとめている。しかし、これについて、当時も「8 月 4 日の攻撃の主張については、物的証拠はまったくなかった。・・・残骸も、死亡した船員の遺体もなかった。写真やその他の物的証拠も存在しなかった。」さらに、1964年8月28日付の極秘文書(ジョンソン大統領向け)は、海軍の現場指揮官であるジョン・ヘリック大佐の報告書が「作戦の検証により、報告された多数の接触事例や魚雷発射は『疑わしい』と判明した。レーダーへの『異常気象の影響』や『過度に熱心な』ソナー要員が多くの報告の原因となった可能性がある。マドックス艦からは『目視確認』の報告はなく、艦長は『完全な評価』を実行してから次の行動を取るよう提案している。」としていたのに、「ワシントンは既に北ベトナム攻撃を決断していた。」と、「事件」当初からその存在に疑問があったことを説明している。そして、当時マクナマラ国防長官が事件存在の「切り札」とした、「極秘かつ疑いの余地のない情報源からの報告によれば、北ベトナムはスワトー級哨戒艇2隻と、準備が整えばPT艇1隻を用いて、我が方駆逐艦を攻撃する準備を進めていた。同情報源は、8月4日の交戦中に攻撃が進行中であると報告した。攻撃終了直後、同情報源は北ベトナムが交戦で2隻の艦艇を失ったと報告した。」と言ったその「情報」の内容についての真偽を、2003年公開に至った当時の北側の通信傍受記録を基に次のような実証的な判断を下している。
○03/1328Z(グリニッジ標準時3日13:28分 現地20:28 私注) の傍受記録は、北ベトナム側が「ホンメー島東方で敵襲撃艇2隻を視認した。追尾せよ。」としたものである。この位置と時刻は 8月1日夜にマドックスがいた位置と一致し、内容も米側が把握している 8月2日の戦闘状況と整合的である。そのため、8月4日の「第二次攻撃」とは無関係であると判断される。なお、原文には明示されていないが、研究者の間では「北ベトナムの、8月2日の戦闘に関する報告が後になって送られた“遅延送信”である」という解釈が一般的である。
○04/1140Z(現地4日18:40)の傍受記録は北側が「哨戒艇に出撃準備を命じ、魚雷艇 T-333 も準備できれば参加せよ」と指示した内容が記録されている。プラドスをはじめとする研究者たちは、この命令が ドンホイ近くのクアンケー基地 から出されたもので、米駆逐艦がいた海域まで 約110海里 離れていたと読んでいる。プラドスは、哨戒艇の最大速度(約40ノット)を前提にすると、この距離を進むには 最低3時間は必要 であると指摘した。それにもかかわらず、アメリカ側の既知資料では、その 1時間後の現地19:40(04/1240Z) に「レーダーに複数の高速目標(敵艦)を探知した」と報告されており、これが長年「第二次攻撃があった」とされる根拠の一つになってきた。しかし、北側の出撃命令から1時間では現場に到達できない ことが明らかになったことで、この前提は成り立たないことが示された。なお、プラドス自身は「誤認の技術的原因」を列挙してはいないが、当夜の乗組員の証言や後年の海軍技術分析などから、米軍の探知報告は波の反射、気象条件による電波の屈折、自艦の反射などを敵艦と誤認した可能性が高いと考えられている。
○04/1630Z(現地23:30)の傍受記録は、北側が航空機を攻撃し、1機が海に墜落するのを観測したこと、そして「敵艦艇が損傷した可能性がある」と報告した内容を要約したもの。さらに続く04/1644Z(現地23:44)の傍受記録には「同志2名を犠牲にした」と認め、2機の航空機を攻撃したと明言していた。プラドスはこれは2日の戦闘内容と一致していて、4日の「戦闘」については何一つ新しい傍受内容が無く、改めて、「この日には、米軍機の下を通過して攻撃する艇は存在しなかった。海軍公式ウェブサイトに掲載された米駆逐艦の戦歴には、8月4日に海戦が発生したとの記述はもはや存在しない。」として、トンキン決議・北爆の根拠となった「第二次トンキン事件」の存在を否定した。このような日にちまで違えた「傍受記録」ができた原因(北側通信の遅延、NSA の「4日に攻撃受けた」前提、要約段階の文脈喪失、米軍の誤認報告)については、プラドスの研究を踏まえて後の研究者が明らかにしている。
ベトナム民主共和国側も、ソ連からの戦闘機(MiG-21)や、SA-2(S-75)地対空ミサイル、85mm・100mm高射砲、レーダー網で強靭な防空システムを作り、アメリカ軍の公式発表でもB52 15機を含む全軍の3,374機を撃墜した。また、ハノイでは空襲に備えて大量の個人用の防空壕も作られた。2025年12月にこの個人用防空壕を探したが、現地ガイドの説明ではすべて埋めたり下水道につなげられたとのことだった。各博物館にそれらの撃墜された軍用機が展示されているが、1972年12月に撃墜されたものがそのまま池に落ちた状態で「展示」されているものもある。
03/1328Z の通信は、北ベトナム側が「ホンメー島東方で敵襲撃艇2隻を視認した」と報告したものである。この位置と時刻は 8月1日夜にマドックスがいた位置と一致し、内容も米側が把握している 8月2日の戦闘状況と整合的である。そのため、8月4日の「第二次攻撃」とは無関係であると判断される。なお、原文には明示されていないが、研究者の間では「8月2日の戦闘に関する報告が後になって送られた“遅延送信”である」という解釈が一般的である。

ホアロー監獄の屋外掲示には、市民による防空体制、個人用防空壕、撃墜機のアメリカ兵などが捕虜になってこの監獄?に入れられたことが写真展示されていた。当時アメリカはここを「ハノイヒルトン」と呼んでいたという。

