Capilla del Sepulcro 聖墓礼拝堂
主祭壇の地下にある礼拝堂で、公開されている。「パスクアル・デ・アラゴン枢機卿(1666-1677)は、弟アントニオ・デ・アラゴンの妻フェリア公爵夫人からの寄贈によってトレドにやってきた聖ウルスラ(※1)の遺骸を納めるために、大聖堂に適切な空間を作ることを決意した。枢機卿は、このためにガラスと木製の骨壷を作らせ(枢機卿の紋章が封印されている)、それまで教皇クレメンス10世が所有していた聖女の遺骨を納めた。 この貴重な棺は、ディエゴ・コピン・デ・ホランダ(※2)が制作し、フアン・デ・ボルゴーニャ(※3)が彩色を施した「キリストの聖葬」と呼ばれるユニークな彫刻のすぐ前にある地下聖堂の中央祭壇に安置された。 このシーンでは、マリア、三人の聖女、聖ヨハネが、ニコデモとアリマタヤのヨセフが持つシーツの上に横たわるキリストを、祈るような姿勢で見つめている様子が描かれている。・・・地下礼拝堂の装飾は、2つの三連祭壇画で完成している。そのうちの一枚は、左側にあり、司教聖ユリアヌス(※4)が、聖バルトロマイと聖ヨハネ(2人とも十二使徒の一員)に挟まれて描かれており、二枚目には、アッシジの聖フランチェスコ(※5)が聖痕を受け、無辜の民の斬首(※6)と洗礼者聖ヨハネが添えられている油絵が描かれている。」
(https://www.leyendasdetoledo.com/cripta-catedral-toledo/をDeepLで翻訳したものより)
左が幼児虐殺。中が聖フランチェスカ。右が洗礼者ヨハネ。
これらの前にある聖ウルスラの棺
※1: キリスト教信者のブリタニアの王女で、383年? ケルンでフン族の王アッティラからの求婚を拒否したため弓矢で殺され、ケルンに埋葬された、という。
※2: オランダ出身といわれる、15世紀後半から16世紀前半にかけて活動した彫刻家
※3: 1470?~1536 ブルゴーニュ公国生まれの画家。スペインで活動。
※4: 伝説の聖人であり、生没年、場所は不明。貴族の家に生まれたが、ある夜、自分の寝室に入った際、すでに寝ている人を侵入者だと勘違いして、自分の両親を殺してしまった。良心の呵責(かしゃく)にさいなまれた彼は、罪を償うために妻とも別れ、城を出ることに決めた。しかし、夫とともに罪を償いたいと望む妻の願いに心を打たれ、ユリアヌスはともに城を出て川の近くに住んだ。そこで夫妻は、旅人や貧しい人々、病人に献身的に尽くし生涯を送った。
※5: 1182~1226年。フランシスコ会の創設者。伝説によれば、1224年に山で祈りを捧げている最中に、キリストの姿をした天使から、イエスが十字架にかけられた際に受けた傷と同じ傷、すなわち両手、両足、脇腹の傷が同じ場所に現れた、という。
※6: イエス誕生を恐れるヘロデ王によるベツレヘムと近郊での2歳以下男児の全員虐殺のことと思われる
それぞれの※「注」については私が調べたものである。