「ゲルニカ」撮影解禁!!


 あまりに有名なピカソの「ゲルニカ」は、マドリッドのソフィア王妃芸術センター、という現代絵画を主として展示している美術館の2階にあり、人々でたいへん賑わっていた。スペインに着いて真っ先に行ったのがここだった。驚いたのは、撮影禁止、と聞いていたのだが、皆スマホで撮影していたことで、3人いた係員は全く注意、制止をしていなかった。私も「これは事実上の解禁かな?」と思って何枚も撮った。後で分ったのだが、実は2023年9月にすでに解禁されていたのだった。ネットによると、イギリスの有名なロック・ミュージシャン、俳優のミック・ジャガーの要望に対して撮影が許されたのを機に、「有名人だけ認めるのはおかしい」、という世論もあり、解禁となったとのこと。

 


 ずっと待ってせっかく正面に立てるチャンスが来たのだが、解禁を知らなかったので、広角レンズを付けた一眼レフはロッカーに預けたままだったので、スマホで撮影した。性能上この絵を平らに全面に入れて撮れなかった。「お目こぼしによるなしくずし解禁」かとその場で誤解していたし、皆スマホで撮影しているので、一眼レフを取ってきてまで撮影する勇気が出なかったのであった。それでも嬉しかった。


 ゲルニカの絵とは
 1937年4月26日、ドイツ空軍が、当時起きていたスペイン内戦(選挙で成立した左派の「人民戦線」政府に対し、右派勢力が起こした反乱軍との内戦)に対し、右派勢力に加担してスペイン北部のゲルニカという町を航空機による無差別爆撃、市民の大量殺傷をした。これに対し、憤ったピカソが1937年のパリ万博のスペイン館に展示するためパリで描いた絵のこと。縦3.493m、横7.766mという大作。ピカソは母国スペインに寄贈するつもりだったが、内戦で反乱軍が勝利し、フランコ将軍の独裁国家になったため、この後ニューヨーク近代美術館で保管され、1975年にフランコが死んでスペインが民主化への道に踏み出したので、1981年マドリッドのプラド美術館に渡り、その後1992年現在のソフィア王妃芸術センターに移った。


 内戦の経過とゲルニカ爆撃への道
 1929年アメリカから始まった世界恐慌により、各国で新たな政治、経済体制が追求されたが、スペインでは王制が崩壊し、共和主義勢力、労働組合、社会民主主義勢力、共産党が伸び、また当時のソ連の方針にそっての、反ファッショ諸勢力の統一戦線戦術が実って、これら左派の「人民戦線」が形成された。同時に、これに危機感を持った右派軍人などの勢力が拡大した。そして1936年総選挙では、人民戦線が470万票、右派勢力が450万票と拮抗したが、選挙制度のため全473議席中、人民戦線263議席(社会労働党88、左翼共和党79、共和主義連合34、カタルーニャ共和主義左翼22、共産党14など)、右派156議席となり、左翼共和党のアサーニャ内閣が成立した。これに対し同年7月から、右派はフランコ元参謀総長がスペイン領モロッコから、そこの強力な軍隊を率いて、やがてスペイン各地での公共機関占拠、人民戦線側の政治家の逮捕などから始まったクーデターの首領となり、人民戦線側も武力で抵抗したため、国を二分する内戦となった。人民戦線には各国からの義勇兵が参陣し、ソ連も資金援助した。他方反乱側にはドイツ、イタリアが直接参加した。イギリス、フランスは不干渉の立場だった。多くが金で雇われた兵からなっていたイタリア陸軍が作戦で大失敗し、人民戦線がマドリッドを死守するなど奮戦したため、ドイツはゲーリング空相が指揮する空軍により、北部の抵抗拠点バスク地方を叩いての戦局挽回、再軍備で新設した空軍力の誇示、バスク地方ビルバオの港湾と鉄鉱山獲得、軍需産業破壊、などをもくろんだ。
 

ゲルニカ爆撃のころのスペイン内戦戦況図。黒い部分が反乱軍勢力下。(荒井信一『ゲルニカ物語』p53より)

 1937年4月9日、ドイツ空軍はビルバオ爆撃に向かったが、上空が厚い雲に覆われていたため、攻撃は中止された。しかし、この後、陸上戦でバスクの人民戦線がビルバオに退却し始め出したので、ビルバオ爆撃に代わって、その退路にあたるゲルニカを攻撃する案が出てきたのであった。また、ゲルニカは、かつてこの地方の長老たちが集ったという樫の木があるなど、この抵抗の地バスクの精神的支柱の町でもあった。この町を廃墟とし、人々に大きな脅威を与えることが戦局挽回の主眼になったのであった。


ゲルニカ爆撃の実態、被害
 1936年4月26日、午後4時30分から爆撃が開始され、ドイツ空軍の爆撃機23機、戦闘機20機にイタリア空軍6機などが参加した(Wikipedia「ゲルニカ爆撃」より)。最初に爆撃機が多くの爆弾を落として町を破壊した後、戦闘機が機銃掃射で逃げ惑う住民を殺傷した。その上に爆撃機が焼夷弾を落下させ、町を焼きつくそうとした。都市爆撃に焼夷弾が本格的に使われたのはこれが人類史上最初で、これは後のアメリカ軍による東京大空襲などで威力を発揮した戦術の先駆けだった。爆撃は3時間以上続いた。
 この爆撃、焼夷弾による破壊は、市街地の25%の建物、70%の炎上だった。犠牲者は、人口7,000人に満たない町で、死者1,645人、負傷者889人(久保田有寿監修『ゲルニカとパプロ・ピカソ 平和への祈り』岩崎書店より)。本来の目標だった「人民戦線軍の退路を断つ」ため破壊予定の橋や軍需工場は、「爆撃の黒煙で目視不能だった」ということで無傷で、結果的に大量殺戮中心の非人道的爆撃となったのである。


「ゲルニカ」の絵の解釈について
 一見してわかるように、この絵はリアルな爆撃やその被害の描写ではない。抽象的、象徴的にゲルニカ爆撃の被害者を中心に描いたものと言えよう。ピカソ自身もこの絵の全体について説明していないので、人々によって様々な解釈がなされてきた。
 すぐわかることは、全体が白黒モノトーンで描かれていること。また、よく見ると牛と馬が1頭ずつ、人間は6人(左の子どもとそれを抱きかかえる母親、中央下に横たわる折れた剣を握って倒れている男、ろくろ首のように顔を窓から出してランプを差し出す女、その下の左へ向かう女、そして一番右に両手をあげて叫んでいる女)がいる。また、中央上に、太陽と思われるものが描かれ、その中に電球が見られる。
 ほとんどの人の解釈が一致しているのは、左の女は、爆撃で死んだわが子を抱いて泣き叫ぶ母親だということである。ゲルニカの犠牲者を代表している、というのが多くの説のようだ。また、この亡きわが子を抱く母親の図案は、無数の画家や彫刻家が題材としてきたピエタ(磔刑で死んだイエスを抱く聖母マリア)と同一であること、それはイエスが再生するようにゲルニカも必ず復活する、というピカソの希望が込められている、という説もあるとのこと。


 折れた剣を握った兵士は、戦ってすでに死んでいるという説も一般的のようだ。そして、これは攻撃されている人民戦線の象徴だという説と、その折れた剣の先から再生を示す「アネモネ」と思われる花が出ていることから、これも人民戦線スペインの再生への期待だという説もある。


 一番右手の両手をあげて叫んでいる女は、一般に「落下する女」と言われている。空襲により火の粉を浴びて建物から落ちていく犠牲者である。

 この4人(幼子を含む)については、ゲルニカ爆撃の犠牲者、または攻撃を受けている人民戦線政府、と見るのが普通であろう。あとの2人については様々な見解がある。
 まず右手から駆け寄る女については、「屍を抱く女を慰めようとする家族や近隣住民であるとされているが詳細は不明ソ連はスペインから遠距離にありながら、即座に共和国政府を支援した唯一の国であり、駆け寄る女はソビエト連邦の隠喩であるとされることも多い」(Wikipedia「ゲルニカ(絵画)」より)という考えや、「災厄から逃れようとしている」ともとれる、と宮下 誠氏は指摘している(同氏『ゲルニカ』p132 光文社新書)。
 また、真ん中へランプを差し出す女については、西洋画では灯りは「真実を点すシンボル」「真理の象徴」として多用されており、惨劇を告発する主体と解釈する人が多い。しかし、「・・ランプが頂点でもあり、中心でもある重要な位置を占めていることは、惨劇を起こす根源がこのランプ=悪の力であることを如実に現わす・・。」として、この女を魔女として「その差し出す灯に照らされた世界は悪に魅入られた悲劇の舞台となる・・。」という解釈もあるとのこと(荒井信一『ゲルニカ物語』岩波新書p138)。

 馬はピカソのこれまでの絵では、闘牛に負ける弱い存在として描かれることが多かったと考えられ、またこの絵でも背中に剣を刺されて悲鳴をあげ倒れかけている。これも犠牲者を表わす、ということが一般の解釈のようである。ちなみに、「体に引かれた無数の縦の短い線は、馬の毛並みを表わすとともに、ゲルニカ爆撃を報じた白黒の新聞記事、または犠牲者たちの無数の墓標を暗示しているようです。」(久保田有寿監修 前掲書p22)また、「フランコのファシズムの崩壊であるとする研究者もいる」(Wikipedia「ゲルニカ(絵画)」より)


 牡牛については一番解釈が別れるところだという。ピカソのこれまでの絵では、牡牛は闘牛に出る荒々しいもの、また西洋絵画では、ギリシャ神話に登場する、牛頭人身の凶暴なミーノータウルスという怪物によく比肩されるため、爆撃をしたファッショ勢力を示すという解釈がある。ピカソ自身も「1945年には画商のジェローム・セックラー(Jerome Seckler)に対して「牡牛は、ファシズムではなく人間の残忍性と暗黒面である。(中略)馬は人民を表す(中略)『ゲルニカ』の壁画は象徴的、寓意的なものであるから、私は馬や牡牛やその他を使ったのだ」と述べた」、という((Wikipedia「ゲルニカ(絵画)」より)。さらに、「真理のランプに照らされ、顔を背けるその動きを見ると、・・・暴力、罪業の象徴としてフランコ、ないしファシズム、あるいは自由を阻害するあらゆる強制の象徴と捉えることも可能・・」(宮下 誠 前掲書p128)と、より強くそれを主張する見解がある。ただし、宮下氏は「ピカソの闘牛好きを考えれば、スペインそのものの形象化ともとれるだろうし、・・・災厄を見届けると同時に、そこから身を遠ざけようとする・・・ピカソ・・・自身だとも考えられる。」(同上書同ページ)とも指摘している。

 最上部に描かれたのは太陽だが、中に電球を描き、この絵が昼夜を超えた抽象的な場を現わすことにした、という説が一般的である。また、「太陽の中にランプがあり、『目』とも解釈できる: 太陽を『目』と見立てており、神の目を連想させる
(https://isaosato.net/guernica/ 佐藤 功氏のサイト「ゲルニカ(ピカソ)に込められた意味」より)

 そして、最後となるが、すぐ上の絵を見てみると、馬の開いた口のすぐ横に、うっすらと机の上に鳩が立っているのがわかる。ビカソは鳩が好きで、よく描いたそうだが、この絵の段階ではまだ普遍的な明確な「平和の象徴」ではなかった。NHKの「チコちゃんに叱られる」の2024年4月19日の放送で、第2次大戦後の1949年に75カ国による核兵器反対の世界平和大会が開かれた際、ピカソの鳩の絵がポスターに使われたことで、鳩が平和の象徴となったとの説明がなされた。しかし、これ以前から一部の人々の中で鳩はそういう象徴としてとらえられていた、というのでピカソもそのような思いを込めてここに鳩を置いたのかもしれない。
 
 以上、次の方々の文献、資料をもとに、少し私の好みの解釈に近づけて何とか説明してみた。ピカソがこの絵のそれぞれの人物、動物についてほとんど説明することが無かったため、どのようにも解釈されうるのも魅力の一つであろう。ただし、ゲルニカ無差別爆撃への怒りと抗議が底流にあることだけは間違いなかろう。
 『スペイン史2』砂山充子さん著述部分 山川出版社
 ヒュー・トマス著、都築忠七訳『スペイン市民戦争』 みすず書房
 久保田有寿監修『ゲルニカとパブロ・ピカソ 平和への祈り』 岩崎書店
 荒井信一『ゲルニカ物語』 岩波新書
 宮下 誠『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』 光文社新書
 https://isaosato.net/guernica/ 佐藤 功氏のサイト「ゲルニカ(ピカソ)に込められた意味」
 Wikipedia「スペイン内戦」「ゲルニカ爆撃」「ゲルニカ(絵画)」など