初めに


 私が中学生のころ、毎日のようにテレビでベトナムの戦争についてのニュースが流されていた。「戦争は嫌だ」という単純な感情があった。
 入学した高校では、当時の大学「学園紛争」の影響もあり、政治への関心がとても高い者たちが多く、安保条約自動延長、沖縄返還協定などの可否も含めて、学習会、授業時間をもらってのクラス討論会などが数多くなされた。その中で、私もベトナム戦争の本質について深めていった。一部のマスコミでは、「北も南もどっちもどっち」論や「米ソ代理戦争」論を流していたが、ベトナムの歴史を勉強すると、そもそもフランスや日本がこの国を植民地支配し、反対した人々に残虐な拷問を加えていたこと、ディエンビエンフーの戦いでのベトナム民主共和国の勝利による、戦った相手フランスも合意したジュネーブ協定の内容である、「17度線は国境ではなく、両軍の一時的な軍事境界線にすぎず、1年後にベトナム統一のために総選挙を行う」などの内容をアメリカや南ベトナムが認めなかったことなどがわかった。また、ベトナムはアメリカの国土を全く侵略してないにも関わらず、アメリカは自分たちの理屈を付け、どうみても北爆、地上軍大量投入など「ベトナム侵略」を行っていると言わざるを得ないこと、ベトナム民主共和国も南ベトナム解放戦線も、ソ連や中国のためにではなく、自分たちの国土から侵略者を追い出す、民族自決のために戦っていること、が真実だと分ってきた。「分ったら行動すべきだ」と周りの仲間たちから誘われ、10.21など校内集会、外の集会、デモに行くようになった。私の高校からは少なくとも3人に1人近くはなにがしかの形でそのような行動に参加した。大学でもこの立場で活動を継続し、1973年のパリ協定によるアメリカ軍撤退、75年4月の解放戦線の勝利を祝うことになった。
 このように、ベトナムの戦争は私にとって、まさに青春を通して、その解決のために考えを深め、行動を推し進めてくれた「想い」の深い国であった。
 ただ、今になって反省すべきは、私だけではなかったが、単純な「悪玉アメリカ、善玉ソ連、中国」論に被れていたこと、またベトナムという国を政治的にのみ捉えていて、その人々の食べ物や習慣など民族文化も含めて総合的に捉える観点が欠けていたことである。
 海外に出るようになって、いつかは行って見たいと思っていたが、2025年は戦後ちょうど50年にあたるので、観光だけではなく何か特別な企画のあるツアーに参加したいと思っていた。そしてたまたまネットで見つけた、このサイトで紹介するツアーに参加し、駆け足の6日間だったが、ハノイからダナン、ホイアン、そしてホーチミンと南北にわたって訪ね、少しだけベトナムの実際の姿に触れることができた。折から、最もお祝いが広くなされる1月29日のテト(旧正月)が近づいており、ハノイもホーチミンも民族衣装アオザイを着てその喜びを現わす人々と接する機会に恵まれたのも幸いだった。
 
 6日間の旅行だったため、戦争の跡や関連のところをいくつか周ったが、限界があり、その歴史について全面展開するのは無理である。それはまたの機会にするとして、ここでは戦争関連に行ったスケッチとして、ベトナムを語る上で忘れてはいけない出来事などについて自由に語ってみたい。なお、ここに紹介する場所以外に、『トゥイーの日記』で知られるベトナム民主共和国の若い従軍女医で、戦死したダン・トゥイー・チャムさんの記念館を訪問したことや、『海のホーチミン・ルート』の著者、90歳をすぎたグエン・ゴックさんのお宅を訪問して、直接お話を聞いた経験があるが、私の不勉強から、それらの本を読んでいないため、今の段階では記せなかった。いずれ日記、本を読んだら感想とともに紹介したいと思っている。


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