私に善くしてくださった人々


 この国には、ムルスカソボタ、マリボル、リュブリャナ、ブレッドに宿泊し、各地へ史跡などを撮影に出かける旅行を行った。当然様々な人々に道を訊いたりするなど簡単な交流をした。結論から言うと、たまたまそうだったのかもしれないが、1.5倍くらいぼったくった1人のタクシー運転手を除いて、皆、一人旅の老いた日本人の私に優しく、親切で善くしてくださった方々だった。その中でも印象に残っている方々を何人か紹介して、感謝の気持ちを表す次第である。

 まず紹介したいのは、最初に宿泊したムルスカソボタ市の、こじんまりとはしているが四つ星のホテル、「Hotel Belmurベルムール」のマスター、ブランコ・ファリッチ氏である。航空機代節約のため、相対的に安いポーランド航空を利用したので、リュブリャナへの乗り替えのワルシャワ空港で8時間待ちとなり、リュブリャナから列車でムルスカソボタに着くのは夜9時を超える予定になった。私には、かつてスペインで「門限」のあるホテルに泊り、ぎりぎりになって苦労したトラウマがある。それで、ワルシャワやリュブリャナからホテルに電話して「申し訳ない。到着は9時過ぎになる。」旨を伝えたところ、マスターが「大丈夫。駅まで迎えに行く。」と言ってくれたのである。そして、このマスターは本当に駅までご伴侶と思われる方と一緒に車で迎えに来られ、私を無事スロヴェニア旅行初日の宿に連れてってくれたのである。さらに夜食まで用意してくださっていた。スロヴェニアには以前も来たことがあるが、ムルスカソボタという街は、私が初めて訪れるところで、日本の一般のガイドブックには載っておらず、また夜に街中を歩くという一抹の不安があったのだったが、この優しい最初の「おもてなし」を受け、あらゆる心配はあっという間に解消した。

 

ホテルベルムールと用意されていた夜食

 実を言うと、費用節約のため、別の三つ星ホテルを予約しようとしたのだが、私がムルスカソボタ市に泊る4月20日、21日はイースターとその翌休日だったため、そこは「営業休止。宿泊客お断り」であった。それで、費用はかさむが、駅まで歩いて10分弱のこの「イースターでも受け付ける」という四つ星ホテルにしたのだった。しかし、結果的に大当たり。このマスターは朝食も私がとても食べきれない質、量ともすばらしいものを用意して下さり、またこの市ではバスがこの二日間運休する、という想定外の事態に面食らったが、知り合いのタクシー会社のタクシーを呼んでくださった。
 そのタクシーであるが、私の目的地へ行く際、なんとオーストリアを通って行った。「これは、ぼる、つもりなのか」と思ったが、後で確認すると、このドライバーがとった行きのオーストリア回りで行く道の方が真っすぐで、ぐにゃぐにゃ曲がりくねっているスロヴェニア国内のバス路線の道路よりも短いコースだったことがわかった。予定外のオーストリアのこれまた普通の日本人観光客が見ることもない地方の風景まで見られて、結果的に、このマスター知り合いのタクシーも良心的だったのである。
 また、マスターは、「日本人の知り合いがいる。」と、年配で工場のライン設計の仕事でよくスロヴェニアに来ているという方をホテルに呼んでくれて、私にそのご家族ともども引き合わせてくださった。この方々からスロヴェニアの情報をいろいろ訊けたのはありがたかった。そして、イースターの特別料理も提供したうえ、食べ残した分を私がでかけているとき部屋の冷蔵庫に丁寧に入れておいてくれた。最後の日に、チェックアウトが終わった後も、「お別れのため」とか言い、近所の人1人を呼んでともどもビールで乾杯した後、また駅まで車で私を送り届けてくださったのである。彼は「人をもてなし喜ばせるのが私の幸せだ」とおっしゃっていたが、まさに日本の「おもてなし」顔負けのサービスであった。費用の中に、私が受けた「番外」サービスも織り込まれていたのかもしれないが、長い旅となった今回のスロヴェニア旅行の最初に、こんな「おもてなし」を受けて、長い前途の不安が薄らぎ、この旅がいいものになる予感がし、本当にありがたかった。

 タクシー運転手と言えば、リュブリャナ駅前から、郊外のプレチニック設計による世界遺産、バルジェの聖ミハエラ教会に行ったときのドライバーは、個人タクシーだったが、着くとメーターを止め、車から降りて、頼んでいないのに、「せっかくだから」と、この教会をバックに私を入れた記念写真を私のスマホで8枚も撮ってくれた。もちろんその撮影サービス追加料金は請求しなかった。

教会をバックにドライバーが撮ってくれた写真


 タクシー関連で、ノヴォ・メストの下カルニオラ博物館の中年女性受付の人(おそらく学芸員)もたいへん丁寧な方だったので紹介したい。実はこの博物館の展示を見終わったら、タクシーで山登りをして、「Baza20」、英語で言うと「Base20」という、今に残るスロベニアパルチザンの司令部の建物に行く予定だった。タクシーで行けるところまで行って、あとは10分の山道を登るというコースである。その旨を伝えると、彼女はまず同僚のこの史跡の管理に携わっている人に電話し、日曜のその日にそこが開館していることを確かめた上(Google Mapsの下調べでは「24時間営業」になっていたが)、タクシー会社に電話してくれた。ところが日曜で営業に出ている台数が少ないのか、そもそも無いのか、それとも他の予定が入っていたためか、その会社のタクシーは利用できなかった。その後、彼女は続けてもう3社のタクシー会社に電話してくれたが、結果は同様であり、この日タクシーを使って「Baza20」に行くことは諦めざるを得なかった。そこは、戦争の最後までファシスト軍に見つからなかったように、麓からとても歩いて行ける場所ではない。でも、私は、この私の要望に対し、真摯に対応してくれた彼女の対応に感動し、すぱっと諦めることができた。そもそも日本の感覚で、日曜にタクシーが無いなどという事が頭になく、この日に予定を組んだこと自体が問題だったのだった。他の日にはもう別のスケジュールを組んでいたのでやむを得なかった。それでは、と「Baza20の写真は無いか? その写真を私のサイトに使わせてもらえないか?」と訊ねたら、パンフレットを持ってきてくれて、写真の掲載にGoサインをくださったのであった。いきなりやって来ていろいろ要望した外国人に対し、丁寧に応対してくださった彼女に感謝した次第で、「Baza20」に行けなかった無念さは残らなかった。

 

ノヴォ・メスト博物館とBaza20

 スロヴェニアの歴史上、重要な役割を果たしたブレイヴァイスという人物の記念碑を撮影するため、リュブリャナからバスで30分くらいのKranjクラーニという町に降り、調べておいた公園の場所に行ったら何とあるべきところにそれが無かった。これ以降、この町の人と思われる人10人くらいに訊いていくうちに、「バス停の左側」に新しい公園ができ、そこに移されたとのこと。ところが今度はその「左側」に行っても見つからない。雨がだんだん強くなってきた。そのとき、国旗とEU旗を掲げる、役所と思われるところがあったので、「ここで訊けばわかるだろう。」と、とび込んだ。受付のようなところに2人の男性が座っていたので訊くと、教えてくれたので、その方向に行って見たが、公園らしきところは見当たらなかった。諦めようか、と思ったが、意を決して再度その役所に行き、訊ねると、どうも私の英語力不足のためだったか、その人々は別のところを教えたようで、今度は通じて、1人が指を指し動かしながら「すぐそこ。50mだよ。」と言ってくれた。2人とも、このへんてこなしつこい日本人にあきれることもなく、嫌な顔も見せず、官僚的でない丁寧な対応だった。結局ここでの説明どおり、「ブレイヴァイス公園」に行き着くことができたのであった。後でGoogle Mapsで調べたらこの役所は何と地方裁判所だった。全く仕事と関係ない、へんな外国人の質問に対し、二度も丁寧に応対してくれたこの二人の守衛または受付の人も親切だった。なお、「クラーニバス停」を私は自分が降りたバス停だとばかり思っていたのだが、そこからほんの少し歩いて曲がった角にも別の「クラーニバス停」があり、確かに「バス停の左側」にその新しい公園があった。降りたバス停からは直角になった方角にもう1つの「バス停」があったので、それが見えてなくてわからなかったのである。新しい「ブレイヴァイス公園」は、初めに降りた「クラーニバス停」から歩いて角を曲がってほんの2、3分のところにあったのだった。

降りたバス停からほんの数分行ったところにあった公園。とんだ回り道だった!!


 次はジュジェンベルクという町で道を訊いた人々の話。ここは、第二次大戦の激戦地の1つで、その戦勝と犠牲者の慰霊を兼ねた碑を撮影に行った。ここも場所をGoogle Mapsで確認し、行くべき道の目印となる家々の様子もストリートビューからタブレットにコピーして保存して行った。ところが、詰めが甘く、最初に行くべき道の最初の家の写真を保存してなかったため、バスから降りた私は急に天下一品の方向音痴になった。今にも雨が振りそうなくらいの厚い黒雲が空を覆っていて、太陽での方角確認も出来なかった。「違った道を行っているのでは?」という不安を抱えながら、道を訊こうと、目にしたカフェに入り、談笑していた中年男性たち数人の話を遮った。すると、私が碑の写真を示したこともあり、皆その場所を知っいるようで、英語ができる人もできない人も、私に対しなんとか道を分らせようと、何人もが同時に熱心に説明しだした。中には、悪気無く、私のスマホを手に取り「Google Mapsはどれだ?」と探り出す人もいた。そのとき、店員と思われる若い女性が出てきて、聞き取りやすい丁寧な英語で説明してくれたため、私は行くべき道とは逆の方に来ていること、元のバス停に戻り、レフトにある消防署のところをレフトに曲がりずっといくべき、と教えてくれた。彼女の言った通りにすると、ストリートビューで見た家々が出てきて登り道で20分かかったが、撮りたかった記念碑にたどり着くことができたのだった。この後、このカフェに戻り、帰りのバスが来るまで、コーヒーを飲んで休んだが、さきほどの人々はもういなくなっていた。ところが、バスが来る時間が近づいたのでバス停に行き、待っていると、一台の自動車が通りかかりいきなりクラクションを鳴らした。そちらに顔を向けると、中には数人の先ほどの男性たちが乗っていて、私に向けて手を振っていたのだった。ささやかな体験だったが、何か心が温まった一瞬であった.

私が道を訊くためとび込んだカフェ。中の人々は話の人々とは違う。



 次の人は本当に親切なプロフェショナル。アイドフシチュナという、第二次大戦後最初のスロヴェニア政府が作られた建物を撮影に行った帰りの話。ここは目指す建物はすぐわかり、撮影を終えてリュブリャナへの帰りのバスのチケットを売り場で買うと、男性の係員が「13:25のものがある」と教えてくれた。それで、バスを待っていると、13:15ころ、「リュブリャナ行き」と書いたパネルをバスの前面に掲げたバスが来たので、「これは少し早目に来たのだな。バスにはこういうことがよくある。」と思い、乗り込もうとした。すると、先ほどの係員で、失礼ながらややゴツイ感じの男性が、パーッとやって来て、私の肩に手をかけ、「これに乗るな。あと10分して来るバスの方が先にリュブリャナに着くから。」とアドバイスしてくれたのだった。「何という親切なプロ意識のある人なんだ!!」と感服した。実際、その10分後に来たバスに乗ると、乗って来た往路のバスとは違い、高速道路を使って早くリュブリャナに着いたのであった。この人も忘れられない人になった。

ここで紹介した切符売り場の人


 最後に紹介したいのは、行きつけになったスロヴェニアレストランの眼鏡をかけた若い女性店員。彼女の写真は無いが、食べ物のサイトで紹介した、リュブリャナの「ヴォドニコフ・フラム」の人。最初に行ったとき私が「胃が小さくあまり食べられない。」と言ったら「ハーフポーション(半分量)にしますね」と言ってくれ、その後何回か食べに行ったときも、私の顔を見るとにこにこして、「ハーフにしますか?」と気を使ってくれて感じが良かった。日本への帰国の前日、お別れを言おうと行くと、勤務日では無かったようでいなかった。それで彼女の同僚の若い女性に、明日帰国すること、「あなたのフレンドに『よろしく』と言ってほしい」と伝えたら(「colleague」という単語が思い出せなかった)、「わかりました」と言ってくれた。「あなたのフレンド」と言っただけで、この女性は分ってくれた。二人ともたいへん感じのいい人たちだった。
 そして、ずっと泊まっていたリュブリャナのホテルの朝食会場の、受付、ルーム番号チェックの係の、失礼ながらそう若くは無い女性である。私が朝食会場に行くと、いつもにこにこして「I remember you.」と言ってくれていた。私がBledブレッド湖に泊りに行って姿が見えなくなったため、もう帰国したと思ったのか、Bledから帰ってまたこのホテルに泊り、私が朝に姿を見せると、とても驚いた表情を示したとともに喜んでくれた。「Bledに泊りに行ってまた戻って来たんだ。」「ああそうだったのね。」という軽い会話を交わした。最後の日に、彼女の仕事が一段落したのを見計らって、思い切って「あなたと写真を撮りたい」と言ったら、両手で顔を覆って少女のような恥じらいを見せたが応じてくれた。そして私は感謝とお別れの挨拶をした。この方もたいへん感じの良い方であった。
 この他、リュブリャナのジャレ墓地で、ある記念碑の場所を訊いた時、わざわざ一緒にそこまで連れて行って教えてくれた、その墓地の教会の聖職者の方や、列車待ちのためケーキ2個で2時間も時間を潰すためにねばったツェリェ駅前のカフェで、「知り合いが日本に行ったことがある。」とわざわざ話を持ち出して時間つぶしにつきあってくれた若い女性店員、ドラヴォグラードを見渡すためちょっとした山に登るとき、登り道が塞がれていると思って困惑したので、すぐ近くの家で芝刈りをしていたが「その塞いでいる家の脇によく見れば細い小道があるからそこを通って行きなさい。日本から来たのかい? 私はFukokaに友人がいるよ。」と丁寧に教えてくれたまだ若さが残る男性など、好感を持てた人は尽きなかった。


 総じて、3週間以上におよぶ長い1人旅で、普通の日本人がまず行かないような地域、町にまで多く行ったが、現地の人から奇異な目で見られている、と感じることは全く無かった。小さな子供の何人かが、東洋人を初めて見たためか、私を見つめたくらいであった。統計によると、この国は犯罪発生率が日本より少し高いようだが、幸い、身の危険を感じることは全く無かった。あのジュジェンベルクの人たちのように、むしろ来たことを歓迎されているように感じたこともあった。1人のタクシードライバーにぼられたのも、私がいいドライバーばかりにめぐまれていたため、ついうっかりメーターを使っていないことを確認しなかった私の隙を突かれたためだった。たまたまいい人たちに恵まれたためなのか分らないが、元々好印象を持ち、その歴史を掘り下げようとしたスロヴェニア。一層好感度が増した旅行となった。



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