初めに


 スロヴェニアは国土面積が約2万平方キロメートルで、日本の四国(約1.88平方キロメートル)より少し大きいくらいの小国である。おそらく日本の多くの方は、「スロヴェニア」という国の名を聞いて、その位置をイメージすることができないと思われる。「スロバキア」との区別も明確でないかもしれない。
 実は私はこの国に1982年8月にも行ったことがある。そのときは、「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」の一構成国である「スロヴェニア社会主義共和国」であったが、スロヴェニアに興味があったというより、ユーゴスラヴィア連邦そのものに興味をもったためであった。
旧ユーゴスラヴィアの構成共和国
ベージュ色の国以外が、スロヴェニアも形成の一翼を担った旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の6つの構成国。自治州はセルビアに属す。

 この当時はまだ米ソ冷戦の時代で、私は資本主義社会の激しい格差に直面し、さらに大学でその矛盾の起こる理由も学び、この経済体制に希望を持てなかった。しかし、他方、「社会主義」と称していたソ連などの国々も、共産党の独裁で、自由権など基本的人権が保障されてなく、さらに「計画経済」と称する国家統制の経済体制であり、進んだ資本主義国に比べて生活水準は劣っていた。これは1980年にたまたま訪問した「ソ連の衛星国」と呼ばれたポーランドの現実を見て実感した。だからこの「社会主義」なるものにも期待は持てなかった。そんな中、ある本で、ユーゴスラヴィアは「自主管理社会主義」という体制で、政治的にはいわゆる「共産党」独裁だが、経済では生産手段はソ連のように国有ではなく「社会有」であり、各職場に経済計画や管理職の人事、さらに自らの給料額まで決めさせる「自主管理」をさせているということを知った。そしてこの職場が他の職場と、また企業は他の企業とそれぞれ合意しての「協定」を結び、また企業と自治体、共和国とも「協約」を結ぶ形で下から経済計画を積み上げるというものだった。さらにこの協定、協約のシステムのほかに、大幅に市場経済も利用しているし、農民の強制的協同組合化もしてなく圧倒的に個人農が多いとのことだった(正確にはユーゴの経済理念では「職場」「企業」という概念は不正確であるのだが、経済システムをイメージしていただくためあえてこの語句を使った)。また、この国は有名だった「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」からなるというユニークな連邦であり、さらに外交的には米ソいずれの陣営にも属さない「非同盟」という第3グループの主導的地位の一角を占めていた。それで、ぜひ一度その現実を見たいと思っていたところ、高校の同期生がこの国にマスコミの仕事で滞在していると知り、連絡を取って協力を仰ぎ、11泊13日の個人企画旅行ができることになった。だが、同期生は仕事があるため、結局ベオグラード以外は全くの生まれて初めての海外単独旅行をする羽目になった(少しだけセルビアクロアチア語を独学でかじってはいたが、これとおぼつかない英語で何とか知らない地を生き抜いた)。当時のセルビア共和国コソボ自治州まで行ったが、日程の都合上、共和国ではモンテネグロ共和国だけには行けなかった。
 しかし、私のこの国への期待は、ユーゴスラヴィア連邦とセルビア共和国の首都であった、ベオグラードの空港まで出迎えてくれたその同期生の運転する車に乗ってホテルに向かうとき、車窓から眺めたベオグラードの街の景色で少し打ち砕かれた。街は東京に比べて街路樹など緑は多いように感じたが、庶民が住むと思われる高層アパートの外観に、失礼ながら「洗練されていない」と感じたのだった。実はこの国に来る直前に、パリ在住、勤務の長い従姉のアパートを訪ねた後、一緒にスイスのジュネーヴやベルン、インターラーケンなどを数日間旅行していたのだった。見てきたパリの高級アパートやスイスのトゥーン湖畔の裕福なヨーロッパ人の別荘群と比べるのは、いささか強引、傲慢かもしれないが、それらとの比較で、ベオグラードのアパートは「ださい。くたびれている。」と感じ、この国も「西側の国」に比べて経済力、生活水準が劣っていると直感したのだった。
1982年のベオグラードのアパート(同級生のアパートからフィルム撮影)。これはまだましな方のもの。
 けれども、その旅程のうち、当時のスロヴェニアに行ったとき、少し「救われた」感じがしたのだった。そこでの家々の多くはユーゴスラヴィアの中では相対的に大きく、スイスの家のように窓やベランダから赤いゼラニウムなどの花を出して飾っていたのである。当時のユーゴの中では最先進地域だと言うことが実感でき、「遅れた、期待外れのユーゴスラヴィア」という認識を少し修正してくれたのだった。
窓やベランダから花を出しているスロヴェニアの家(1982年8月)
 私の訪問後8年くらいで、悍ましい共和国間、民族間の「兄弟間戦争」、ジェノサイドなどでその幕を閉じたユーゴスラヴィアについては、現在その総括を勉強中だが、私が好感を持ったスロヴェニアは、いち早く若干の犠牲を伴いつつユーゴスラヴィア連邦を抜け出し独立し、資本主義国となるが、その後は「EUの優等生」、美しい山、湖、川、海をもつ「ヨーロッパの隠れた宝石の1つ」とも言われている。2024年9月に再訪した首都リュブリャナのホテルにも、ブレッド湖、ボヒニュ湖や、地中海沿岸地方などにも多くの外国人観光客が来ていた。
 
 かつての第2次大戦で、スロヴェニアの反ファシズムパルチザンが、勝利後、ファシストに協力した人物たちを裁判もせずかなり殺戮し、また1990年代の悍ましい民族間戦争のとき、セルビア人の収容所を国土内に作っていた、という「負の遺産」があったのも事実である。ただ、旧ユーゴスラヴィアの中では比較的に他民族抑圧、殺戮は少なく、「長い間、主に国土の多くがオーストリア帝国という大国に支配され、その後は自らの意志でユーゴスラヴィアに加わったが、ユーゴの中央権力に自分たちの稼いだ分を取り上げられ、それがユーゴ内の遅れた国へ回されている」と感じ、いち早くユーゴから抜け独立を勝ち取った国、として、「ヨーロッパの小国で、大国や隣国に自由を奪われてきたが、自らの努力で独立をかちえた国」ととらえることができると思い、私のサイトのテーマの対象国とした。
 かつて想いを寄せた旧ユーゴスラヴィアの一国だったという、懐かしい恋した人の1人を紹介するような身びいきがあるのは否定しない。サイトでは、美しいこの国の自然や民族衣装を紹介した上で、さらに独立までの歴史を辿っていきたい。ただし、歴史についてはまだ資料収集が不足しているので、3度目の訪問が済むまでお待ち願いたい。

  

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